砂漠が似合う       主教 ステパノ 高地 敬

 

 先日、東京のある駅のものすごい雑踏の中を久しぶりに歩きました。何かお祭りでもあるのかと思うほどの混み方で、大阪でも見ないような人通りです。その同じ週に、教区内の法人の会合に行って、その後時間が空いていたので普通列車で2時間余り移動しました。海岸沿いの新緑の中を2両編成の電車が走ります。日中の電車はかなり空いていて、ある駅では、列車に乗ろうと急いでいる一人の婦人のために発車を遅らせたりして、とてものんびりしています。乗り合わせた人たちが「まぁ、久しぶり」とあいさつし、そんな人たちが何組もいて、世間話がひとしきり続きます。
 この違いってなんだろうと思わずにいられませんでした。駅の通路を一人の婦人が急ぐ。一方の駅では一度に何千人もの人たちが行き交っている。人数の違いだけでなく、どちらにいるかによって心の有り様も大きく違うし、金銭感覚もかなり違うのではないかと思います。10秒発車が遅れると抗議の声が上がる世界があり、一方では一人のために20秒待っている世界がある。すごい勢いで人もお金も動いている駅があり、いたるところペンキが剥げている駅がある。
 イエス様の時代にもエルサレムに集まる人々がいる一方で、一度もエルサレムに行ったことのない大勢の人たちがいたのではないでしょうか。エルサレムの祭りの時の雑踏とガリラヤの静けさ。大神殿の近くにいる都会の生活に対して、大自然と一緒の生活。
 この両極端の地域の違いは、自分の心の中にも代わる代わる顔を出します。まとまりのつかないいろんな思いがすごい勢いで通り過ぎていく時と、なんとなく落ち着いている時と。どちらにもうれしい気持ち、寂しい気持ち、しんどい気持ちがあり、どんな時もイエス様が知らない間に寄り添っていてくださるのでありました。

(教区主教)