2020年11月8日     聖霊降臨後第23主日(A年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「だから、目を覚ましていなさい。」(マタイ25:13)

 日に日に寒くなり、秋の深まりと冬の訪れを感じる季節になってきました。この時期の聖書日課は、神の救いが実現される終末の時=「終わりの日」について語り伝えられた箇所が挙げられています。
 マタイによる福音書25章の「十人のおとめのたとえ」もその一つです。初代キリスト教会の人々は、十字架上で死に、復活、昇天された主イエス・キリストが、再びこの世に再臨される日がもうすぐ来る、という期待をもって待ち続けていました。しかし、待てども待てどもキリスト再臨の日はやって来ない、そういう生活を送るうちにキリスト教迫害もあり、信仰が揺らいでしまう人々も多かったと思われます。
 そんな人々に向けて、福音書はイエスの天の国のたとえ話を語っています。ユダヤでの婚礼は夜行われていたそうです。まず、婚礼の客たちは花嫁の家で接待を受けながら花婿の到着を待つ。そして、花婿が到着すると、灯りで通りを照らしながら花嫁と共に花婿の家まで行列して行き、そこで祝宴を行ったそうです。このユダヤの習慣にたとえて、神の御心にかなった信仰のあり方を教えています。十人のおとめは灯火をもって、花婿を迎える準備をします。そのうち愚かな五人のおとめは、油を用意していなかった。賢い五人のおとめは予備の油を用意していた。花婿の到着が遅れたので、皆眠りこんでしまいます。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」という声を聞いて灯火を整えようとしたのですが、愚かなおとめたちは油が切れてしまっていた。だから、賢いおとめたちに油を分けてくれと頼むのですが、「自分の分は買ってきなさい」と断られます。そして、油を買ってから駆けつけると、主人はもう戸を閉めて入れてくれなかった、というのです。
 私はかなり昔にこのたとえ話を読んだ時に、この賢いおとめと主人は何て意地悪な人たちなのだろう、と不思議に思いました。「油くらい分けてあげればいいのに」と。しかし、このたとえ話の「油」は油ではなく、キリストを待ち望む信仰を表しているので、他の人に分けてあげられるものではないのです。
 私たちは日々さまざまな期待をもち、祈りと願いをもって生活しています。けれど、自分の思い通りにならない、時には期待を裏切られるようなことが起こって失望することもあります。それでも、主イエス・キリストへの愛と信仰を失わず、忍耐をもって困難を乗り越えることができるか、救いが成就される「終わりの日」を待ち望み続けていけるか、が問われているのです。
 私たちは現在、コロナ禍の時代にあって、さまざまな忍耐を強いられています。喜びをもたらすさまざまな交わりができなくなっています。しかしだからこそ、いつも自分自身の信仰の「目を覚まして」、「灯火を灯して」、主のみ心にかなってしっかりと歩んでいきましょう。