2020年11月22日     降臨節前主日(A年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

「真二つに分けるなんて」【マタイ福音書25章31−46節】

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』マタイによる福音書25章40節

 マタイ福音書はこの物語をもってイエスの諸活動の叙述を終え、十字架刑に処せられる「受難物語」へと進んでいく。その最後の物語は世の終わりの「最後の審判」を思わせる話である。この世で、飢えている人、渇いている人、宿のない人、着物を持たない人、牢獄に入れられている人など、苦しんでいる人々を支えた人は祝福され永遠の命を受け、そうでない人は永劫の罰を受けるとされている。
 福音書の最後に語られる話がこんなにも、はっきりと人間を分けるお話でよいのだろうかとつくづく思う。誰しも、人生で一度くらいはそのような善行を誰かに対して行い、逆に一度くらいは、あるいはもっと何度も苦しんでいる人をスルーしてしまった苦い経験があると思うからだ。少なくとも私にはある。
 もう一つ気になるのは、最初に引用した聖書の言葉にひいてある下線部分だ。
 「最も小さい者」とは先述の困難にあっている一般の人々を指すと思うのだが、その前に「私の兄弟である」という形容語がついている。すなわち、キリストを信じる者たちという意味だろう。そうするとこれは世間一般の困っている人を指すのではなく、キリスト教の信者の中で困っている人という意味になってしまう。残念なことだが、なんとヒドイ自己中心な、教会中心の話なのかと思う。
 誰であれ、困っている人を支援するこの世のボランティアの方々、コロナ禍の医療従事者の方々こそが永遠の命にふさわしいのではなかろうか。
 少なくとも、神さまは、このように真二つに人間を分けるのではなく、一人一人の事情をよくよくくみ取って、考慮してくれて、判断してくださると信じたい。失敗を繰り返しながら、それでも良きことを目指して生きたいと思ってきた者として。