2021年1月31日     顕現後第4主日(B年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

 イエスさまは漁師であった4人の弟子たちと一緒にカファルナウムという所へ行き、会堂で教え始められました(マルコによる福音書第1章21−28節)。マタイやルカによる福音書の「山上の説教」とは異なり、どのような教えが説かれたのかは記されていませんが、その教えを聞いて「人々は非常に驚いた」とだけ記されています。それは「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」だと説明されています。そして、会堂にいた男性の体から、汚れた霊を出て行かせた時も、人々はみな驚き「権威ある新しい教えだ」と互いに口にします。人々が非常に驚き、権威ある教えだと言わしめたイエスさまの教えとは、どのようなものであったのでしょうか。
 イエスさまの権威は、私たちが想像する権威とは少し異なるような気がします。権威というと、何か大きな権限をもった人、社会的な地位を持った人、特別な学力や能力を持った人、多くは先生と呼ばれる人を思い浮かべます。しかしイエスさまは、律法の専門家でもなければ、貴族でもありませんし、政府の高官や祭司長でもありませんでした。おおよそ権威という文字からはかけ離れた存在でしたが、ひとたび「人間をとる漁師にしよう」と声をかければ4人の弟子たちが従い、カファルナウムの会堂で教えれば権威ある教えだと人々から驚かれ、汚れた霊が言うことをききます。また、律法学者や警察官のように法律にそぐわないからダメとか、医学的あるいは法律学的に見てこうした方が良いというレベルの教えでもないようです。
 私たちの聖公会という教会の中でも、主教さんは権威をもっていますし、牧師もある程度の権威があるのかも知れません。主教をはじめ聖職者は、イエスさまの権威に見習って、いかに私たちの概念の中にある権威を持った人ではないように振舞うか、人を裁いたり罰したりすることよりも、その人の痛みや不安に寄り添い、大切にできるかというところに重きを置いているはずです。
 偉いけれども偉くない、権威があるようで権威がない、という何とも中途半端なところに、自由さがあって、柔軟さが生まれてくるのではないでしょうか。それは、人々が驚いたイエスさまの「権威ある教え」を自らの職務の根本としているからに他なりません。権威という言葉に溺れてしまう人の強権的な振る舞いは、私たちの目には「こっけい」な姿として映ってしまいます。
 想像しますと、イエスさまの「権威ある教え」とは、一人ひとりの弱さに寄り添って、一緒に解決の糸口を探してくれるような優しさにあふれたもの、誰もが触れたがらない所に触れ、時には厳しい助言をする強さをもったものだったのではないでしょうか。誰もが分かっているようで気が付かない、理想としているけれども届かない、自分たちが見て見ぬふりをしていた誠実さを伴った、イエスさまの生き様そのものが人々を驚かせ、権威ある新しい教えだと言わしめたのだと思います。
 自らの生き様の中に、イエスさまの生き様を重ね合わせて生きようとするのが、私たちの信仰生活です。凝り固まった決まりごとで、人を裁く律法学者のようにではなく、一人ひとりの弱さと一緒に、誠実さのかけらを求めて、優しさと強さを兼ね備えた権威を、今日の福音書から学び、心に刻み歩みたいと思います。誰かの言動にイライラしたときは、イエスさまの「権威ある新しい教え」という言葉を思い出して、想像し、相手の立場に立つことを忘れないでいたいと思います。
 堅信受領者総会を行なう時期ですが、新しい1年の宣教の歩みが、イエスさまの権威あふれる教会、あたたかな雰囲気をかもし出す交わりを作り出していけるように、祈り求めていきましょう。