2021年3月14日     大斎節第4主日(B年)

 

司祭 エレナ 古本みさ

「いのちのパン」【福音書:ヨハネ6:4−15】

たくさんの人たちがイエスさまのお話を聞こう、あるいは病気を癒してもらおうとどこまでもイエスさまと弟子たちについて回っていました。日も暮れてきておなかがすいた。けれども人々は帰ろうとしない。どうしよう、こんな大勢の人々に食べさせるパンはない。弟子たちはおろおろしているうちに、イエスさまは五つのパンと二匹の魚を取り、神さまに感謝のお祈りをささげます。すると、そのパンと魚はものすごい量に膨れ上がり、男性だけで五千人、女性や子供も入れたら一万人以上いたであろう人たちがそれを食べて満腹した。残りを集めたらなんと十二のかごにいっぱいになった。ざっと言うとこのような話が四つの福音書に共通して書かれています。

大筋はそうなのですが、ヨハネ福音書には他の福音書と少し違う部分があります。そう、一つは、少年が五つのパンと二匹の魚を差し出すというところで、ここがよくクローズアップされます。けれどももう一つ、マタイ、マルコ、ルカとは大きく違う部分がヨハネにはあります。三つの福音書においては、イエスさまが弟子たちに自分たちの食べ物を持って来させ、イエスさまがそれを祈りによって増やした後、弟子たちに配らせました。ところが、ヨハネ福音書では、イエスさまが少年から、五つの大麦パンと二匹の魚を取り、感謝の祈りを唱えて、座っている人々に直接分け与えられたのです。弟子たちではなく、イエスさまご自身が分け与えられるのです。

イエスさまが十字架で死んで、三日後に復活され、その五十日後に天に昇られてから、弟子たちは、毎週、イエスさまが復活された日曜日に一つ屋根の下に集まり、食卓を囲んでパンとぶどう酒をいただきました。生前のイエスさまから伝えられていた通り、パンをイエスさまの体、ぶどう酒をイエスさまの血としていただいたのです。その真ん中に、目には見えないはずのイエスさまがおられました。弟子たちの目が開け、心の目で見たのです。それは、ガリラヤ湖畔の小高い丘で少年からパンと魚を受け取り、感謝の祈りをささげ、それらを人々に延々と分け与えられるイエスさまでした。与えても、与えても決してなくならないパンを与え続けるイエスさまをそこに見たのです。

弟子たちは口々に語り合ったことでしょう。「あのとき、空腹に耐えながらイエスさまの話を聞こうと集まって来た人たちがどれだけいたか覚えているか? 男だけで5千人はいただろう。それがたった5つの大麦パンと2匹の魚で、全員が欲しいだけ食べて満たされたんだ。でも、満たされたのは僕たちのおなかだけではなかった。その後イエスさまはこう言われた。『わたしは命のパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである』と。さあ、いただこう、イエスさまが分けてくださるパンを。このパンはイエスさまご自身なんだ。このパンをいただくことが何を意味するか、イエスさまが言われたことを思い出そう。イエスさまはこう言われたんだ。『私の肉を食べ、わたしの血を飲むものは、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる』と。」

 これがヨハネの教会に伝わった聖餐式でした。ヨハネによる福音書には、あの有名な最後の晩餐の記事がないのです。その代りに聖餐式でその都度鮮やかに思い起こされ、記念されたのは、この五千人に食べ物が分かち合われた奇跡と、その後のイエスさまの「わたしが命のパンである」という言葉でした。

聖餐式でわたしたちがいただくパンとぶどう酒は、イエスさまご自身がわたしたちに分け与えてくださった、イエスさまの体と血です。わたしたちはそれをいただいて、イエスさまがいついかなる時も共にいてくださることを確信し、満たされ、その恵みを人々と分かち合うために派遣されます。さあ、おなかがすいてすいて、喉がからっからになった、わたしたちの心にイエスさまに来ていただきましょう。