2021年3月28日     復活前主日(B年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

人間の弱さと対照的なイエス様の姿

 復活前主日、教会ではこの日から1週間、イエス様のこの世での最後の1週間を共にする聖週を過ごします。イエス様は十字架に向かって日曜日に12弟子と共にエルサレムに入ります。そして、その週の木曜日の深夜に逮捕され、金曜日の午後3時に十字架上で息を引き取ります。亡くなったイエス様のご遺体はすぐに降ろされ、墓に葬られました。
 ところで、この1週間の出来事を見たとき、人間とイエス様の全く正反対の姿を感じます。
 まず、イエス様がエルサレムに入られたとき、人々は大歓声をもってイエス様を王様として迎えます。ところが、祭司長たちに扇動されたとはいえ、わずか5日後には「十字架につけろ」とイエス様を犯罪者扱いにしてしまいます。変わりやすい人間の心、周囲に左右されやすい人間の弱さを感じます。
 また、最後の晩餐の後、祈るためにゲッセマネに行ったイエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われましたが、イエス様が祈っている間、3人は眠ってしまいます。ここでのイエス様の祈りは十字架の死を間近にしての悲痛な祈りでしたが、3人はそんなイエス様を目の前にしても、眠気を我慢できない肉体的な弱さを露見してしまいます。
 そして、イエス様の弟子のイスカリオテのユダはお金の誘惑に負けてイエス様を裏切り、逮捕の重要な役割をすることになります。何もかも捨ててまでもイエス様に従っていく価値を見出していたはずなのに、自分の欲のためには簡単に裏切ってしまうのです。また、イエス様が逮捕された後、ペトロは3度もイエス様を「知らない」と言います。他の弟子たちもすべてイエス様が逮捕されるとすぐに逃げ出してしまいます。それは、自分たちも逮捕されるのではないかとの恐れからだったと思います。このように、弱い弟子たちでした。
 一方、「この杯をわたしから取りのけてください」「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と人間の肉体を持ったイエス様は私たちと同じ弱さを見せているようにも思いますが、それはあくまでも神様を信頼し、神の子として神様の計画通りに受難を耐えようとする祈りであるように思います。この苦しみから逃げたい、避けたいという自分のための思いではなく、神様のみ心に従うための「父よ、共にいてください」という思いではなかったでしょうか。

 さて、春の暖かな陽気になりました。明るい時間が長くなっていくと何となく明るく嬉しい気持ちになっていきます。しかし、今、この世界はコロナ感染や自然災害の不安、さらには争い・紛争の絶えない中にあります。この状況はイエス様の受難とダブるように感じます。
 しかし、いつまでも受難が続くわけではありません。イエス様の受難の後には復活の出来事がありました。明るい希望に満ちた復活の喜びがありました。それによって弟子たちの心も変わっていきました。イエス様の復活の出来事は、私たちの今のこの受難のように感じる現状の後にも必ず明るい希望に満ちた喜びが来ることを約束してくださっているのではないでしょうか。ですから、私たちは今の現状にただ不安や失望を覚えるのではなく、どのように過ごして明るい希望に満ちた世界に変えていけるかを、神様に祈りつつ考えていきたいと思います。