2021年4月11日     復活節第2主日(B年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「聖霊を受け、信じるものになりなさい」【ヨハネ20:19〜31】

 墓には尼布がおかれてあるだけで、彼らはイエスさまが墓から居なくなっていることを認めたけれど「死人の中からよみがえる」ことを悟っていなかったのです。経験だけでは信仰にはなるとは言えません。
 イエスさまに出会っても復活されたのだとわからないで、何か不思議なことというふうに片付けられてしまいます。
 不思議なことではあるのですが神さまがなぜ私たちに対して不思議なことをなさったのか、そのことが私たちとどのような関わりがあるのか思うような不思議に出会うことがあります。
 ところがそんなこともあるものだなぁで片付けてしまうことが多いものです。聖書を読まないとそれで終わることが多いのです。
 それでは信仰になかなか繋がっていきません。聖書をよく読み、聖書の方からから物事を見て初めてそのものの持っている意味を知ることができると思います。
 復活と言う人類始まって以来一度しかなかった事件にあっても聖書を知らなかったらそれがどういう意味かを悟ることはできません。それが今日の福音書に示されています。
 「彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。」と書かれてあります。私たちにとって必要なことは聖霊を受けることなのだと思います。
 弟子たちはイエスさまがよみがえられたことを見て経験しました。その意味も分かりましたがそれが自分たちの恐れを取り除く力となっていなかったようです。
 現にユダヤ人を恐れ鍵をかけて部屋の中にこもっていました。ところがそのような弟子たちに対してイエスさまは「聖霊を受けなさい、あなたがたに信仰がいま力にならないのは聖霊をうけていないからである」と言われたのです。
 私たちも、イエスさまが十字架について死んでくださったこと承知しています。神はその一人子を世に給うほどこの世を愛してくださったことも知ってはいます。
 ところがそのことがわたしたちの信仰生活にとって中々力となってこないのはなぜなのでしょうか。本当の意味で奉仕の生活をしたいという思いがわいてこないなどです。これほど信仰生活を中心に生きているのになぜ力がわいてこないのだろうと思うわけです。
 それは、聖霊を受けていないからではないでしょうか。
 今日の福音書の24節以下は有名な「トマスの迷い」の箇所です。
 トマスはイエスさまと会うまでは信じられないと意地を張っていました。
 イエスさまは手の傷の跡、わき腹の槍の跡に触れさせ「信じないものにならないで、信じるものになりなさい」といわれました。
 実は信じないことはたやすく、信じることこそ難しいと思うのです。
 ところがよく「絶対信じるものか」といきがる人がいますが、信じないことはだれでもできることではないでしょうか。
 信じられないようなことを信じるにはとても勇気がいると思います。
 トマスへの言葉はそのまま私たちへのイエスさまの語りかけのように聞こえます。
 最後にヨハネによる福音書の書かれた目的が記されています。
 福音書はイエスさまがなさった行跡を並べただけではないと思います。イエスさまが神の子キリストであることを私たちが信じ、それによって命を得るために書かれたものとはっきり宣言されています。福音書が書かれた目的を忘れると福音書を何かためになる本、道徳の本のようにとられそのように読んでしまう恐れが出てきます。
 イエスさまは神の子であると私たちが信じるようになるためのものであることを忘れてはならないと思います。
 「私はすでに世に勝っている」これこそイエスさまの復活の言葉です。
 わたしたちも困難や苦しみの中に立たされそこが墓場のように希望のない世界に見えてもイエス・キリストのゆえに墓が破られる時があることを固く信じたいと思います。
 復活の主のゆえにそこから立ち上がっていくものになりたいと思うのです。