2021年5月9日     復活節第6主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

教会―愛せない人々の集まり【ヨハネ15:9−17】

キリスト教や教会というと、まず思い描かれるのは、おそらく自己犠牲や博愛というイメージではないでしょうか。私がそれを感じた最初の体験は中一の時のこと。私のほんの少しの不親切を級友から「クリスチャンのくせに!」となじられたときです。しかし、―先に結論みたいなことを言いますが―実は、「人間は自分の力だけで他人を愛するのは不可能」(雨宮神父)なのであって、愛することができない、と知った人々の集まりがキリスト教会ではないかと思うのです。もちろんパウロの「愛の賛歌」は「…愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。…」(Tコリ13:4−5)と語ります。しかし、この通りに誰ができるでしょうか。さらに、本日のイエスさまの言葉を見てみたいと思います。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。…こうなるとますます私にはできそうもありません。

しかし、少しさかのぼって12節を見ると「互いに愛し合いなさい」の前に、17節にはなかった「わたしがあなたがたを愛したように」があるのです。この「愛した」は原典でも過去形です。つまり、イエスさまが弟子たち、そして私たちを愛したという事実が先にあるのです。だとすれば、「友のために命を捨てること」も、まずもってイエスさまが先に、既に、なさったことなのでした。だとすれば、先ほどの「愛の賛歌」も全く異なる見え方がしてきます。それは、「愛」に「イエス」を入れてみるとよく分かります。「…イエスは忍耐強い。イエスは情け深い。ねたまない。イエスは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。…」(Tコリ13:4−5)しかも、これは全て私たちのためでした。

先ほど私は、愛することが自力でできない人々の集まりがキリスト教会では、と言いました。そういう自分であるがゆえに、私たちは、イエスさまが私たちのために苦悩され忍耐され、命を捨ててくださったことを無上の喜びとするのです。愛せない、できない、からこそ、イエスさまは、私たちを受け容れてくださったのでした。教会、それは、愛することについて不完全な者の集まりです。しかも忘れっぽくて、すぐに的を外してしまいます。だからこそ、毎週集い、礼拝を通して、神さまがどのように私たちを愛されたかについて毎回確認しているのです。そして、その確認が、感謝と賛美へと変えられることを知っている共同体なのです。