2021年6月6日     聖霊降臨後第2主日(B年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

気が変になったのは誰か?【マルコ3:20−35】

 マルコによる福音書の書き出しの一文は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と断言するところから始まります。他の福音書よりもっとイエスその人にスポットライトが当たっている福音書といえます。洗礼を受けたイエスさまが弟子たちを招き、安息日に「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」記事が続きます。そのあとも朝早くから遅くまで、食べる暇もなく旅をし、人々をいやす働きを続けられました。また異邦人や罪人と言われる人たちと一緒に食事をし、ローマ帝国の手先と考えられていた徴税人までご自分の弟子となさいました。
 イエスさま一行の言動を見とがめたのは律法学者やファリサイ派の人々でした。彼らにとって重要なことは、神さまの定められた律法に従う生活を送ることでした。実際のところ律法を守る生活をするには安定した収入と恵まれた生活が必要なのです。しかし彼らは律法を守ることができない人々を罪人として裁き、仲間外れにすることもためらいませんでした。
 逆にイエスさまや弟子たちがともに生きていた人々は、律法に従った生活をしたくてもできない人々でした。異邦人とお金や物資のやりとりをしないと生活が成り立たない徴税人や商人たち、動物の世話があるため安息日を守ることができない羊飼いたち、病気がもとで共同体から追いやられ、日々の生活もままならない人々。彼らもまた、神さまが創造を終えてご覧になったときに「極めて良かった」(創世記1:31)存在、神さまの宝物であったはずです。イエスさまは「極めて良い」いのちを、人間がふるい分けていることに対して異議申し立てをされました。蔑ろにされた人たちの尊厳=良い存在であることを回復する働きを続けられたのです。
 しかしイエスに近しい人、身内の人々にとって彼の言動は狂気の沙汰とも映ったことでしょう。社会的に発言力もあり、正しいとされている人に正面から盾つく危険なことだと慌ててイエスさまを取り押さえにやってきました。また、律法学者たちもイエスさまの活動の場を確認するためにエルサレムからガリラヤ地方へやってきます。そして律法学者たちは彼の言動を見聞きして「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いふらしました。
 それを聞いたイエスさまにすれば、神さまの働きをさして悪霊同士の内輪争いと言われたのですから、納得できません。神さまはどんな人間をも赦そうと待っていてくださるのに、神さまの働きを悪霊の働きと言って貶め、いのちをもたらす神の国を自分たちが拒むばかりか、助けを求めて集まってこようとする人たちを妨げようとするのです。それに対して「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われました。
 イエスさまは、律法を守り社会の秩序を維持することを決して蔑ろにするわけではありませんでした。律法最優先、秩序維持最優先の中で存在しないことにされている人々の回復に全力を尽くされたのです。
 それは同時に律法を守り秩序を守ること=人間の努力を「神さまの愛」、「神さまそのもの」よりも上に置いていないだろうか。つまり「私=神のほかに何ものをも神としてはならない」という十戒に違反していることになるのではないだろうか、という問題提起だったのです。
 いのちを慈しみ、いのちを大切にし、蔑ろにされているいのちの回復のためにご自身のいのちを賭して全力で働かれたがイエスさまでした。