2021年7月18日     聖霊降臨後第8主日(B年)

 

司祭 マーク シュタール

    イザヤ書 57:14b〜21
    詩編 22:22〜30
    エフェソの信徒への手紙 2:11〜22
    マルコによる福音書 6:30〜44

 旧約聖書を読む時、とても身近に感じる時と全然身近に感じない時があります。身近に感じない時というのは2,3千年の時の隔たりのせいで、私たちは関係ないと感じてしまうからでしょう。私たちは羊の生態も知らず、羊飼いの経験もないわけですから。それでも、長く聖書に親しんでいると、ある程度、馴染みが出てきます。預言者が言うことにも想像が働き、理解ができます。時には預言者の正義や怒りや賛美の気持ちをとても身近に感じることもあります。
 今回のイザヤはその良い例です。今日のみ言葉で、イザヤは「私はとこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊が私の前で弱り果てることがないように、私の造った命ある者が。」と言います。
 イザヤの預言の原動力は富めるものと貧しいものとの厳然たる格差、そして、それをどうすることもできない権力者たちの存在です。一方、イザヤが預言することにとても消極的であることにも私たちは共感します。自分はあくまでも目立たずにいたい、この騒ぎの渦中に飛び込みたくない、有名にもなりたくないのです。そのジレンマがあった彼は、神様の御心を行うために自分の心と戦わなくてはいけませんでした。
 「神様の御心を行う」というのはパウロによるエフェソの信徒への手紙の中でくり返し出てくるテーマです。この手紙は、後の方に書かれたものなので、訴える力はやや緩やかです。それは、初代キリスト者たちが徐々に自信をつけてきた表れでもありました。テーマはキリストにおける一致です。教会は目に見える形での、そのシンボルです。パウロは「神様の恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」(エフェソ1:8)と書いています。この手紙は世界中のキリスト者の信仰が当初はばらばらであったことを印象づけます。かつては選ばれた民とそれ以外の人々にはっきり別れていました。今は、人種、国籍、性別、身分に関係なく全ての人が主の食卓に招かれています。この転換は十字架上のキリストの死によってもたらされたものです。敵対するものを分け隔てる壁をキリストは自分の無実の死をもって打ち壊してくれたのです。平和をもたらし、神様との和解をもたらし、新しいクリスチャンというコミュニティー、つながりをもたらしてくれたのです。ある意味、エフェソの信徒への手紙のメッセージは今日的です。私たちは依然、所得、民族、文化、肌の色やイデオロギーで分断されていると言わざるを得ません。しかし、エフェソの信徒への手紙はそれが永遠には続かないという希望を与えてくれます。時が来れば、神様はキリストにおいて、すべてを一つとしてくれるのです。その象徴は教会です。教会は、キリストの名によって人々の心を一つにしてくれる場所として存在し続けてくれるのです。
 イエスは、間違った世界を完全にひっくり返し、一度再構築して、私たちにあるべき姿を示してくれました。イエスが弟子や使徒や群衆に生き方を示した時、価値観の大きな転換がありました。貧困や侮辱は自信と意欲に変えられ、権力や富の追求はむなしいものになりました。イエスは、5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にしました。常識をひっくり返し、全ての人に行き渡らせたのです。
 イエスとともに生きるようと希望を持つ、それは、旧約聖書の多くの教えを漏斗に集めるかのように一つに集め、十字架からの復活を通して与えられたものです。イエスの教えには、一切の分け隔てはありませんでした。イエスの前にも、後にもこれほど全ての人民に自信をもって暖かい御手を広げてくれた人はいませんでした。旧約聖書の分断された状態から、どうやって私たちはキリストにおいて一つであるとの自信を深めることになったのでしょうか。イエスは、まさに瓶に液体を集める漏斗のように、旧約聖書の預言者たちが語る混沌としてものを一つに集め、それを自信へと導き、使徒書に変えて私たちに注いで下さったのです。

 主に感謝