2021年8月1日     聖霊降臨後第10主日(B年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

     ヨハネによる福音書 第6章24−35節

 イエスさまは「私が命のパンである」、イエスさまの存在自体が神さまのみ業のしるしである、と教えられます。かつて、イスラエルの人々がエジプトでの奴隷から解放されてシナイの荒れ野をさまよっていたとき、食べるものに困ってモーセとアロンに不平をもらしました。すると神さまはマンナというパンを降らせ、人々の飢えを満たされました。人々は、この出来事を実現させたモーセがすごいと思ってしまいますが、これは神さまの慈しみとみ守りのしるし、いつも共にいてくださる神さまに目を向けるべき出来事でした。
 先週の5千人の養いの物語、イエスさまの奇跡の業も神さまの恵みのしるしです。しかし、人々はパンと魚を食べて満腹し、イエスさまこそが日々の食べ物の心配から自分たちを解放してくれる政治的な指導者だと思い込んでしまいます。イエスさまを追いかけてカファルナウムへやって来た群衆に向かって、「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と、少し厳しい言葉をかけられます。「パンを食べて満腹する」ということは、文字通り空腹を満たすということはもちろん、現実の生活の不安が取り除かれ、人生に安定をもたらすことをも意味します。私たち人間は、生きて行く為に何かを食べていかなくてはなりませんが、それだけでは生きていけないのも事実です。また、自分の命を支える食べ物を得る為に、愛する誰かを支え、食べ物を分かち合う為に私たちは働きます。働く場所が保障されている間は安心できますが、必ずしも努力をすればした分だけ人生の保障が得られるという訳にはいきません。私たちが自らの人生の為に費やすエネルギーの大半は、食べる事や着ること、住む家を維持するといった、衣食住の為に費やされているといっても過言ではないと思いますが、日々の生活を少しでも楽にすることを求め、まるでそれが人生の唯一の目的であるかのような錯覚にも陥ります。
 私たちはこの1年半ほどの間、教会に集まることを自粛し、オンラインでの礼拝や会議、研修会ということにはずいぶんと慣れた一方で、共に集まり、対面で言葉を交わし、食卓を囲むことの大切さに飢え、ストレスを覚えています。そしてまた、私たちの日々の暮らしに必要不可欠な仕事をしてくださっているエッセンシャルワーカーの方々への感謝の思いを強くし、経済活動が制限される中で、支援を必要とする方々がたくさんおられるという現実がより鮮明に見えてきました。
 イエスさまの元にやってきた人々は「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか、あなたを信じることができるように、どんなしるしを行なってくださいますか」と詰め寄ります。人々は5つのパンと2匹の魚の出来事が大切なしるしであったことに気付かず、自分たちの心を神さまの思いへと向けるべきところを、自分が食べていくことへの思い悩みから抜け出せないでいます。神さまの業、永遠の命へと至るイエスさまのしるしは、すべての人と共にイエスさまがいてくださる、イエスさまの存在そのものです。何かしるしを見たから信じるのではなく、信じているからそのしるしの意味が理解できて、生きる支えとなっていきます。
 洗礼を授かる時に頭に注がれる水は、罪に死に新しく生きる恵みのしるし、聖餐式であずかるパンとぶどう酒は、イエスさまの十字架による赦しとその生き様を自らのものとする感謝と決意のしるしです。パンとぶどう酒は、クリスチャン以外の人たちから見れば、単なるウエハースとお酒ですが、イエスさまこそが愛と救いのしるしだと信じる私たちにとっては、明日を生きる大切な糧となります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と宣言してくださるイエスさまを信じ抜く道を歩み、イエスさまが私たちのパンであるように、私たちも誰かのパンとなれるように、永遠の命に至る食べ物のために働く者でありたいと願います。