2021年9月26日     聖霊降臨後第18主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

隣人を裁くあなたは、一体何者なのですか。【ヤコブの手紙4章12節】

 今日の福音書に登場してくるヨハネがイエス様に「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」と報告しています。
 当時の社会では、今のような医学的知識がありませんでしたから、病気になるのは何かの力に取り付かれているからだと考えたようです。その力を悪霊と呼びました。悪霊が人の体の中に入ると、精神的肉体的疾患をもたらし、手足が不自由になったり、言語能力を失ったり、精神的な異常を引き起こしたりすると考えられていたようです。 そしてそのような人たちを相手に、勝手にイエス様の名前を使ってその悪霊を追い出す業をしている人たちがいました。それを見たヨハネが「イエスの名を使うなら自分たちと同胞だ。仲間になりなさい」とでも言ったのでしょうか。しかし、その人は行動を共にすることを拒みました。そこでヨハネは、これはけしからんということで止めさせた。ところがイエス様は、そのヨハネの取った行動に対して「止めさせてはならない」と言われます。
 イエス様の周りには大勢の人たちが集まってきて、語られる言葉に耳を傾けなさるみ業を目にしていたわけですが、そのことによって心を動かされ注目している人たち少なからずいたことでしょう。そういう人たちに対して、「あなたの行動はおかしいので止めなさい」と言ってつまずかせるようなことをしてはならないとヨハネの心の狭さを叱っておられるとも受け止めることができると思います。
 またイエス様は弟子たちを選ぶときに「自分を捨て、わたしに従いなさい」と言われましたが、ヨハネはこの言葉を真剣に受け止めて熱心にイエス様についていきました。ところが、イエス様と行動を共にしているうちに、特別に弟子に選ばれ、汚れた霊に対する権能を授けられている自分たちこそが本家本元だという、特権意識を持ちはじめていたのかもしれません。そこまでいかなくても、弟子イコール自分たちという閉鎖的な仲間意識であったかもしれない。とにかく、弟子たちは仲間に加わろうとしないことを問題にしているわけですが、しかし逆に、そのような問題の仕方をイエス様は問題にされます。ここでは弟子たちの不寛容さや特権意識、閉鎖的な仲間意識を戒めておられるようにも思います。
 さらに、マルコ福音書の3章に、イエス様が12人の弟子たちをお選びになった時のことが書かれていますが、14節でイエス様はヨハネと兄弟のヤコブに、ボアネルゲスというニックネーム付けました。このヘブライ語のボアネルゲスは「雷の子ら」という意味だとマルコは説明しています。なぜ「雷の子」と主は呼ばれたのでしょうか。つまりヨハネは雷のように突然カッとなって大きな声で怒鳴る、すぐに感情が高ぶってそれが態度に表れてくる、そのような性格の人であったのではないか・・・・。そうだとすると、感情的な態度をとることによって人をつまずかせることを戒めておられると受け止めることができると思います。
 また、マルコ福音書9章42節以下では「えっ」と思うようなことが書かれていますが、しかし、これは文字通りにその通りにしなさいということではありません。もしそうだとしたら、恐ろしくて誰も教会に来なくなるでしょうし却って人々をつまずかせることになります。これは、自分を神様から引き離そうとする力はいかに執拗なものであるかを伝えようとしておられるものではないでしょうか。つまり、実際に体の一部分を切り取れと命令しているのではなくて、罪から解放されて、神様の御心に聞き従っていくことがどんなに重要であるかを、こうした表現を用いて強調しているのだと言えます。
 「隣人を裁くあなたは、一体何者なのですか」きょうの使徒書の最後のみ言葉です。私たちは神様の広い、大きな愛に導かれて生かされています。このように生かされている者が、他者に対して不寛容であったとしたら、神様はどんなに悲しまれることでしょうか。