2022年1月2日     降誕後第2主日(C年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「躊躇や迷いのなかで歩む」【ルカによる福音書 2:41−52】

  イエス・キリストの子どもの時代を伝える聖書の箇所はごくわずかです。しかも、それはルカによる福音書に限られていますが、今日の福音書は、子ども時代の最後のエピソードとして12歳での過越祭のときのことを伝えています。
 12歳という年齢は「律法を守らなければならない年齢」です。もう子ども扱いではないことをも意味します。12歳になったイエスは初めて過越祭に参加するため、両親や親類の人々とともに、ナザレの村からエルサレムへ旅をしました。祭に女性が参加する義務はありませんでしたが、マリアもともに出かけました。約130キロの道程です。いわゆる「巡礼」の旅ですから、たくさん人々が群れをなしてエルサレムを訪れ、その数は十万人とも言われました。7日間続いた祭が終わってみんなで帰路につき、1日分の道程を歩いたころ、両親はイエスがいないことに気づきます。ヨセフもマリアも当然イエスが一緒に歩いていると思っていましたが、確認不足でした。マリア、ヨセフにとってどんなに不安で心配であったでしょうか。きっと必死になってイエスを捜したに違いありません。生きた心地がしなかったのではないかと思います。1日分の道程を行き、3日の後に二人は神殿の境内でイエスを見つけました。エルサレムを発ってから4日目のことです。この間のマリアやヨセフの気持ちを想像するとマリアが「なぜこんなことをしてくれたのですか?」と思わずイエスに言った気持ちは容易に理解できます。ところが、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言いました。―しかし、両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった―。血眼になって行方を捜し、ようやく見つけたイエスから出た言葉を容易に受け止めることができなかった両親の様子は、とても人間らしいと感じます。この後、イエスは再びナザレに帰り、両親に仕えて暮らすのですが、―母はこれらのことをすべて心に納めていた―のです。
 マリアとヨセフにとってイエスの誕生そのものが容易に受け止められることではなかったでしょう。今日の聖書は、その二人が人の子として育んできたイエスを「神の子」として受け入れなければならないときが来ることを示唆しています。それは現在のキリスト教においては自明のこととされていますが、イエスと母との会話にあるように、このとき受け入れるには「時」が必要でした。マリアの応答は天使の言葉に躊躇したと同様、そう簡単に受け入れられることではなかったことを感じさせてくれます。これ以降、マリアは出来事を心に納め、イエスについて静かに思いめぐらしたことでしょう。マリアがイエスを神の子であると本当に知るのはイエスの十字架と復活の出来事まで待たねばならなかったかもしれません。それほどまでに神のみ心を知ること、それを受け止めていくには時が必要なのではないでしょうか。
 受け止めては、躊躇し、躊躇しては受け止める・・・そんな信仰の歩みを大切にしたいと思います。