2022年1月16日     顕現後第2主日(C年)

 

司祭 マーク シュタール

     イザヤ書 62:1〜5
     コリントの信徒への手紙I 12:1〜11
     ヨハネによる福音書 2:1〜11

 顕現節に私たちはイエスの宣教活動の始まりを見ます。その理解を深めるために、旧約聖書では歴史的なイスラエルの解放の場面を読みました。エルサレムの人々は奴隷としてバビロンへ追放されました。いわゆるバビロン捕囚です。
 その時、イスラエルの民は「神様、なぜ私たちをお見捨てになったですか?」と思ったことでしょう。この追放と解放は、ユダヤ人にとって2度目のことでした。1度目はヤコブの時代にエジプトへ移ったイスラエルの民が次第に奴隷として苛酷な生活を強いられ、ようやくモーセに率いられて解放された出エジプトの出来事です。この出来事はバビロン捕囚よりかなり前のことでしたが、2つともユダヤ人にとっては歴史的に重要な出来事でした。神様によって、モーセをリーダーとしてユダヤ人がエジプトから劇的に解放されました。イスラエルの民にとって神様の救いと約束は大きな出来事として語り継がれたはずです。その1500年後ごろにエルサレムとその中の神殿がバビロニアの軍隊によって滅ぼされました。その直後に追放が始まりました。エジプトの物語では、ユダヤ人は何百年もエジプトに住んでいましたが、バビロニアでの捕囚期間は割合短かったです。捕囚開始から70年後、キリウスというバビロニアの王がユダヤ人を突然解放しました。一部の人々はすぐにエルサレムへ帰って、新しい神殿を立てました。その帰還の場面が今日の旧約聖書のところですが、イザヤのメッセージは希望に満ちています。神様の栄光をほめたたえる時はすぐ来ると伝えています。そして、例えて言っています。「捨てられた妻は再び夫のあるものになる。もう捨てられた女とは呼ばれない。その土地、つまり、イスラエルも、夫を持つものと呼ばれる」と書いてあります。この「夫」という言葉は実は神様を指しています。つまり、ユダヤ人と神様が70年ぶりに再会するということです。
 今日の福音書はよく知られた箇所です。イエスの最初の奇跡ですが、その奇跡の意味するところは何だったのでしょうか?「弟子たちはこの最初のしるしでイエスを信じた」とありますが、それだけではないと思います。この最初の奇跡は「過去の経験をも理解する」ためのものでした。つまり、バビロン捕囚からの奇跡的な帰還を示唆していると思います。
 使徒書では、コリントの信徒たちの間に聖霊が現れました。しかし、一人一人その現れ方は違いました。例えば、ある人は聖霊から特別な贈り物が与えられますが、同じレベルでの贈り物がない人もいました。その結果、人々の間には不公平感や妬みが生じ、奪い合いが起きました。ここでは、追放されていた時の感覚が呼び戻されたのかも知れません。
 さて、私たちの信仰の祖先たちがやっとバビロン捕囚からの帰還を果たしました。そして、彼らは失われた過去を取り戻すためにそして明るい新しい将来のために力を合わせます。「救いがたいまつのように燃え上がるまで」イエスは奇跡を行なって、新しさと力を示します。ここで私たちが目を奪われるのは、果たして奇跡でしょうか。それとも、それが象徴する新しさや力でしょうか。パウロはまた、コリントの教会に対して多様性の大切さを諭します。彼らの間にある多様性は素晴らしいものとして語られます。追放からの奇跡的な帰還、新しさと強さの概念、多様性の素晴らしさは、私たちにとっても色褪せることのない、暗示、メッセージです。今日のみ言葉が依然パンデミックに翻弄される私たちに、新たな希望を与えてくださいますように。