2022年4月17日     復活日(C年)

 

司祭 サムエル 門脇光禪

「主のご復活おめでとうございます」

 主のご復活をお祝い申し上げます。キリスト教の中心はもちろん復活にあります。死んだ人が蘇るのです。それだけでも驚くべきことなのですがさらにわたしたちさえも永遠の命のうちに移しかえられるのだからもう死を知らない体になると言うのです。
 でも正直果たして信じていけるのでしょうか。冷静に聖書に戻って考えてみましょう
 もしイエスさまの復活という出来事がなければ、イエスさまの十字架に逃げ惑った弟子たちがローマの厳しい迫害の中命を捨てても復活を証した事実その変わり様をどうしても説明できません。
 最初にイエスさまのご復活を確信できた人は誰でしょう。それは弟子、側近の人にも全くいませんでした。最初に復活したイエスさまが現れたとされるマグダラのマリアさん。彼女も墓から遺体がなくなっているのを見て、「ご遺体が盗まれた」としか考えられませんでした。弟子たちは「イエスさまが復活した」と証言する婦人たちを嘲笑って、自分たちの目の前に現れるまで信じませんでした。復活を初めから確信していた強い弟子などではなく皆さん復活のイエスさまに実際に会うまでは、すっかり落胆し、絶望し、部屋に鍵を掛けて閉じこもるだけでした。弟子の一人トマスにいたっては、残りの使徒たちが「イエスさまは確かに復活した」と言っても、自分に現れていなかったため最後まで否定し続けていました。
 十字架上のイエスさまの死を目撃した弟子たちは、同じ目にあったら大変と隠れて籠ってしまったのです。その同じ弟子たちが、「イエスさまが復活した」という自分たちで作り上げた幻想のために堂々と世間に現われて「イエスさまは復活した、彼は確かにメシアだった」と宣言したでしょうか。自分たちで作り上げた物語のためだけに実際に命をささげることができたでしょうかと疑問が残ります。
 もしも弟子たちが復活したと言う幻想をやはり作ったとしたならばそれは大変な神への冒涜になるでしょう。そんなことをしたならば「神さまの偽証人とさえ見なされます。…復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです(Iコリ15:15)」。あの純朴で正直な何も持たない弟子たちがそんな偽証をあえてしたでしょうか疑問が残ります。
 ユダヤ当局の反応ユダヤの宗教・政治的指導者とローマ帝国はイエスさまを実際に処刑したのです。それはイエスさまについていく者を根こそぎ絶やす必要がありました。
 そしてイエスさまは「自分が復活する」と預言していました。このことも十分承知でした。だからこそ墓を封印したのではないでしょうか。つまり墓をふさぐ岩に綱を張って端にろうそくをたらし、そのロウの上に印を彫刻までしていました。こうして番兵に見張りさえさせていたわけです。
 もしも復活が弟子たちの幻想であるならそしてイエスさまのご遺体が墓に無かったことの真相がまさに弟子たちが盗んだだけとしたならばすぐに弟子たちをとらえ、弟子たちが隠したイエスさまのご遺体を自白させて見つけ出しご遺体を再び皆の前で公開すればよかったのです。ところがこんな簡単なことをユダヤの指導者もローマ帝国もなぜかできなかったのみたいです。
 さらに民衆の回心も不思議です。十字架につけよと叫んだ人々のことも不思議です。ご復活50日後、大勢の人々がユダヤ当局の思惑にも関わらず、イエスさまの復活を信じ、洗礼を受けキリスト者となっています。その後、さらに信じる人々が広まって行きます。だからこそ今日に至っているのです。これは明らかな事実です。自分たちが十字架につけたイエスさまという人物を、今度は神さまとあがめ、裏切り者の弱い弟子たちのもとに結束していくのです。これは弟子たちの復活宣言を確かに信じるに足るものと人々が認めたからです。そのためには信じられる何かがあったはずです。
 イエスさまのご復活は、キリスト信仰の中心なのです。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。…この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(Iコリ15:14−21)。
 42年前神学校の説教学の教授が卒業前に「説教はイエスさまの十字架とご復活だけを語っていればいいんだ。余計なことはいっさい言うな」と言われました。
 キリスト教による救いとは福音とは何でしょうか。それは、今までの自己中心的な罪ある自分を十字架にかけて滅ぼし、ご復活されたキリストとともに希望と勇気、信仰をもって再出発することにあるのではないでしょうか。そしてこのことを主日ごとの聖餐式によってイエスさまの最後の晩餐を再現し思い起こし懺悔と悔い改めをして、また新しい命を戴くことに尽きるのではないでしょうか。それが永遠の命にいたる道、一方的な神さまの愛による救いなのではないでしょうか。自分が特別な才能を持っているのでなく努力をしたり勉強や修練したのでもなく一方的な神さまの愛と神さまの方から私たちに近づいてくださった大きな恵みなのだと思います。私たちはただそれを感謝して受けるだけなのと思います。本当に嬉しいことです。あらためてイースターおめでとうございます。