2022年5月8日     復活節第4主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

イエス様に導かれる群れとして

その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んでいった。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」ヨハネによる福音書10章22−25

 人間は群れをなすことで自然や他のグループと競い合い、厳しい環境を生き抜いてきました。その際、統率するリーダーの役割を誰かが担ってきました。各国の政治指導者から会社の部署、クラブ活動などわたしたちが属する集団のリーダーを思い浮かべればその個性が群れの方向を決めることが良く分かります。旧約聖書は天地創造から始まるユダヤ人の歴史が綴られた壮大な書物ですが、理不尽で困難な現実の只中を生きるイスラエルにモーセやギデオン、ダビデなどのリーダーを通して神様が救いの手を延べられたことの証です。そして、時が満ち、神様の愛がナザレのイエス様として受肉し、十字架の苦しみとご復活によりイスラエルという民族を越え、最終的に救いが全人類に及んだことを証ししているのが新約聖書です。イエス様こそが真の救い主。この一点にキリスト教信仰はかかっています。
 ローマ帝国の支配下におかれていたユダヤ人にとって、神がお立てになるリーダー(救世主)はいったい誰であるかは民族の存亡をかけた大問題でした。そのとき、病気の人々を癒し、目の見えない人の目を開け、湖の暴風雨を治め、五つのパンで5千人の人々の飢えを満たしたイエスという人が登場したのです。この人が預言されているキリスト(メシア)ではないかと人々は期待するようになりました。その噂のイエスが神殿に姿を現したところから今日の福音書が始まります。時は神殿奉献記念祭。昔、侵略者アンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿を占領し、ユダヤ人を虐殺したうえで支配の印として持ち込んだ神像を祀(まつ)る大事件がありました。このとき、信仰と愛国に燃えた人々がマカベアをリーダーに蜂起し、激しい戦闘の末に神殿を奪還。偶像を砕いて神殿を潔め、神様に再奉献した記念の祭りですから、否が応でもユダヤ民族の血はふつふつとたぎっていました。そんな人々がイエス様を取り囲み、これ以上われわれに気を揉ませず、メシアであるかどうかはっきりさせてくれと迫ったのです。人々はマカベアのように民族主義を鼓舞し武装蜂起のリーダーのイメージを救い主メシアに期待していました。イエスと言う男は数々の力ある奇跡を行い民衆の指示を集める一方、異邦人とも付き合い、前回の上洛の際は神殿の賑わいの中で両替人の屋台をひっくり返すなど、実力行使をしてまで既得権益層の偽善と腐敗を批判した人物としても知られていました。イエス様の返事次第ではユダヤの裏切り者として命さえも狙われることになるのです。さて、ユダヤ愛国者・民族主義者には残念ですがイエス様の生き方とメッセージはどれも期待を裏切るものばかりでした。病に苦しむ人を癒し、異邦人に光を与え、慰めの言葉を語り、消えゆく灯心をそっと両手で守り、折れそうな葦を支えられたイエス様。弟子たちの汚れた足を自ら洗われ、互いに愛せよとの言葉を残して十字架の上で釘打たれて苦しまれ、人々の罵りの中で絶命されたのです。イエス様の眼差しは政治や権力、血塗られた闘争ではなく見捨てられた人々へ常に注がれていました。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」力の信奉者へのイエス様の答えです。こんなイエスがユダヤ人解放のリーダーであるとは彼らに信じられるはずがありません。そのこともイエス様はご存知でした。愛国や民族という言葉は敵に対する憎悪の感情によって集団を一致させ、生きる意味を与え、命を懸けるほど人々を燃えさせます。その象徴としてのリーダーは力あるものでなければなりません。しかし、それはイエス様と対極にあるものでした。
 混乱を極める現代、わたしたちはどのような人をリーダーとして仰ぐのでしょうか。わたしたちの主はイエス様。ご自身のからだと血をわたしたちに与え、力や富では手に入れることができない、神様の愛のうちに生きるようにしてくださった方です。永遠の命とは神様との愛の交わりの内あると教えてくださるだけなく、ご自身の身体と血をもって与えてくださる方こそ本当のメシアであるとわたしたちは告白し、その方を仰ぎその方を羊飼いとしてついて行くのです。
 かろうじて均衡を保っていた国際関係が力の信奉者によって一瞬にして崩壊した現実を前に、前世紀に跋扈(ばっこ)した愛国や民族という内向きの力が強く働きだしました。イエス様がそうであられたように愛を内に秘め、思慮深く穏健な態度を忘れずに目を覚ましてこの時代を見極めることの大切さを身に染みて覚える日々です。