2022年6月19日     聖霊降臨後第2主日(C年)

 

司祭 サムエル 奥 晋一郎

「日々、自分の十字架を負って、イエスさまに従う」【ルカ9・18−24】

 今回の聖書箇所は、マタイにもマルコにも登場する箇所です。本日の福音書、ルカにおいて、イエスさまは「わたしに付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」の中の「日々」という言葉が登場するのがルカの特徴です。
 「日々、自分の十字架を背負う」どのようなことでしょうか。ペトロをはじめ弟子たちはイエスさまが預言者以上の存在、「神からのメシア、救い主」であることは分かっていました。しかし、その思いは「日々、自分の十字架を負ってイエスさまに従う」というものではありません。彼らはイエスさまに対して目先の栄光、武力、権力、金銭、経済力によって、当時、ユダヤの国を支配しているローマ帝国、または、長老、祭司長、律法学者といった政治的、宗教的指導者から解放を願い、彼ら自身がイエスさまの次の身分、大臣などの権力者になることを願っていました。そのような彼らの思いを察知して、イエスさまはペトロをはじめとした弟子たちにそうではなく、逆に「日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われました。
 イエスさまが天に昇り、聖霊が降った後、弟子たちはイエスさまの教え、キリスト教をユダヤ各地、そして、現在の北アフリカ、シリア、トルコ、ギリシア、イタリアに伝えることによって、迫害を受ける状況になってしまいました。しかし、彼らはそんな苦しみ、自分自身の十字架を負ってもなお、それで終わるのではなく、喜びを持って、日々神様に、イエスさまに生かされていることを感謝して、過ごしていきました。このことが使徒言行録に書かれています。その結果、長年の年月を経て、現在、この日本において、イエスさまの教え、キリスト教が存在し、毎週日曜日に、主日礼拝をおささげすることができています。
 現在、各教会で主日礼拝をささげている私たちにとって、「日々、自分の十字架を負ってイエスさまに従う」とはどのようなことでしょうか。現在の日本は、イエスさまの弟子たちが迫害を受けたように、クリスチャンであるからという理由で迫害されることはほとんどありません。ただ、日本でクリスチャンは人口の1パーセントに満たないので、マイノリティー、少数者であることは否定できません。不便な時があるかもしれません。そのような状況にあっても、イエスさまの弟子たちと同じように、ささやかであっても、私たちはイエスさまの教え、聖書のみ言葉を読み、神様、イエスさまに日々生かされていることを感謝し、自らの十字架を背負う生き方、イエスさまに従う生き方ができればと思います。そして、私たちは少数者であるからこそ、他のマイノリティー、少数者の方、ことに弱い立場にいる方、小さくされている方を心に留めて、共に生きていくことを大切にしたいと思います。