2022年9月18日     聖霊降臨後第15主日(C年)

 

司祭 マタイ 古本靖久

不正にまみれた富【ルカによる福音書16章1〜13節】

 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。(ルカによる福音書16章4節)

 先週の主日礼拝では、ルカによる福音書15章1〜10節にある「見失った羊のたとえ」と「無くした銀貨のたとえ」が読まれました。また15章11〜32節には「放蕩息子のたとえ」が続いています。この15章にある3つのたとえを通して、わたしたちを捜し、また待ち続ける神さまの姿をイエス様は示されました。
 これらの15章のたとえは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して語られました。彼らは、イエス様が罪人たちを迎えて食事まで一緒にしていることに対し、文句を言ったのです。その彼らに対し語られた3つのたとえを、イエス様の弟子たちは「そうだ、そのとおりだ」と思いながら聞いていたことでしょう。またわたしたちも、これらの3つのたとえを「これは自分たちにとっては喜びのメッセージだ」と受け止めるかもしれません。
 ところが続けてイエス様は、弟子たちに対して、今週の箇所にある「不正な管理人のたとえ」を語られます。ある金持ちの財産を管理していた管理人がいました。しかし彼が主人の財産を無駄遣いしているという告げ口があります。彼はそこで、主人に借りのある人の証文を書き換え、勝手にその人たちの借金を減らしてしまいます。主人に与える損害はさらに大きくなるのです。
 先ほども言いましたが、このたとえ話はイエス様が弟子たちに対して語られたものです。イエス様は彼らに信仰のお手本を示すのではなく、とんでもない行為をする管理人の話を語られました。この話を通じて、イエス様は弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。
 たとえ話の中で管理人の行為によって財産を減らされた主人は、この管理人の抜け目ないやり方をほめたそうです。この管理人は自分の命を守るために、全力で不正に走りました。富に執着したのです。不正であったとしても富に対して一途であった管理人を、主人はほめたのです。
 ファリサイ派や律法学者も、聖書の中ではイエス様に批判されています。しかし彼らは律法に執着し、神さまの前に正しい者であろうとまっすぐに生きていたのです。ただその方向が間違っていただけなのです。
 弟子たちはイエス様に批判される彼らに対し、何か自分たちが優位に立ったかのような気持ちになっていたでしょう。「自分たちはイエス様のそばにいて、一番救いに近いのだ」とうぬぼれていたかもしれません。しかし彼らの信仰は、中途半端でした。聖書は伝えます。彼らはイエス様を裏切り、イエス様を見棄て、十字架の前から逃げ出したのだと。
 イエス様は彼らがそうなることを知った上で、「神と富とを天秤にかけるな。中途半端に従うんじゃない」というたとえを語られました。弟子たちは「富」には執着してなかったとしても、「自分」に執着していたのです。そのことをイエス様は伝えられたのです。
 この言葉は、わたしたちにも語られています。わたしたちはどうでしょうか。中途半端な信仰にはなっていないでしょうか。わたしたちには正しい選択が求められています。ただ神さまに目を向け、歩む者となりましょう。