2022年10月9日     聖霊降臨後第18主日(C年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「癒やしの向こう側に主の救いを見る」

 ガリラヤ地方は、イエス様の故郷ナザレのある出身地です。一方、サマリア地方に住むサマリア人は、善きサマリア人のたとえでご存じの様に、ユダヤの民から異邦人の血が混じった者として忌み嫌われていました。今日の出来事は、その間で起こりました。
 ある村に入ると思い皮膚病を患っている10人の人がイエス様を出迎えます。
 重い皮膚病・・・日本でも近年までハンセン病問題で多くの人が偏見の中、隔離疎外されてきました。共同体の中、家族からも隔離・疎外されて生きなければならない苦しみは想像するに余りあります。
 ある患者の手記の中にこう綴られていました。自分が最も苦しく悲しいこと、それは、病気そのものより、家族との交わりすら絶たれていること、更に、何かの罪のために神仏からも断絶されていると思う事・・・
 イエス様の時代、ユダヤの社会では預言者モーセの律法は、偏見や社会の秩序を維持するため、本来の神様のみ教えからかけ離れたものになってしまい、このような難病を患った人々を不当に苦しめるものとなっていました。ハンセン病患者が隔離政策で苦しんだのと同様、福音に登場する10人の患者も彼らの村の中で隔離された生活を余儀なくしていたはずです。毎日、彼らは絶望の中で生きていたことでしょう。
 そんなある日、他の村々で様々な奇跡を行い、重い病の人々を癒したイエス様が村に近づいているという噂を耳にします。彼らは、藁にもすがる思いで、イエス様に会いたい、自分たちも癒していただきたいと願ったのです。出迎えるために飛び出していきます…しかし、彼らは、近づいて来られるイエス様に近づこうとはしません。「遠くの方に立ち止った」ままでした。というのも、彼らは穢れた者とされているので、人に近づくことなど許されませんでした。
 イエス様との間に超えてはならない距離があったのです。しかし、彼らはイエス様に届く様、大きな声を張り上げて必死に叫びました。祈りました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。
 このように遠くの方から叫んでいる彼らをイエス様はどうされたでしょうか?無視されたでしょうか?決してそうではありませんでした。福音にはイエス様はそのような彼らを「見て」とあります。「見て」という言葉はイエス様に使われる場合、特別な意味を持ちます。私たちが視界に入るものを目にするのとは違うのです。この時、イエス様が見るとは、臓腑がねじれるばかりに激しい憐みがその中にあります。イエス様は、この重い皮膚病に苦しみ、隔離されていた10人の悲痛な祈りに応えて深く憐れまれたのです。
 その後、福音には何と描かれているでしょうか?具体的にどのようなイエス様が奇跡を行われたとか、イエス様が彼らに近いて何をしたとか何も書かれていません。重い皮膚病がどのように癒されたのか?それをどのように理解するか?それは私たち一人ひとりに委ねられています。
 ただイエス様は、ひとこと言われました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。当時、穢れとされる重い病気が治ったのを確認したり、清くされていることを宣言するのは、祭司の役目でした。清くされたと認められて初めて彼らは家族、また共同体の中に復帰することができました。この後、どうなったでしょうか?彼らは行く途中で清くされたとあります。
 さて、祭司の所まで行く途中、彼らは本当に病気が癒されると信じていたでしょうか?私はそう思えません。半信半疑、でもイエス様の言われた通りに行ってみよう、そのような気持ちではなかったかと思います。イエス様の奇跡は噂では聞いていた、でも、まさか自分に奇跡が起ころうとは、信じていなかったと思います。しかし、奇跡は本当に起こりました、そして、祭司に清くされた体を見てもらい、彼らは隔離生活から再び人々の交わりに帰ることが赦されます。彼らは大いに喜びました。そして、皆踊らんばかりに自分の家に帰っていったことでしょう。
 ところで、今日の福音は、ここまでが前半とすれば、この後の出来事が後半の部分です。そして、この後半が、福音のポイント、私たちへのメッセージです。後半の物語は、癒された10人、その中の1人がその後、大声で神を賛美しながら戻って来たことから始まります。そして、彼はイエス様の足元に平伏して感謝しました。更に、この人は、ユダヤ人ではない、忌み嫌われていたサマリア人でした。イエス様の言葉にもあります様に、他の9人は同じ様に清くされたにも関わらず戻ってきませんでした。神様に感謝をささげるために戻ってきませんでした。では、皆、必死に祈りました、そして一緒に癒されました、しかし、1人のサマリア人はイエス様の所に戻って来た、一方、9人は戻って来なかった、10人のその後の行動を分けたものは何だったのでしょう?
 9人は、イエス様の奇跡の先に、神様の力が働いていることが分かりませんでした。一方、1人のサマリア人は、自分の癒されたことの中に、目にはみえなくても神様の力(憐み)を見たのだと思います。イエス様を通じて働かれた神様の救いを信じることができたのです。だから、イエス様の所に戻ってくることができたのです。果たして、イエス様は、戻って来た人に言われました。
 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」イエス様のこの言葉が意味することは何でしょう?この男は、他の9人とは違ってきっとその後の人生が大きく変わったでしょう。ただ重い皮膚病が癒されただけではありません、家族や共同体の交わりが回復されただけではありません。彼は、「立ち上がって」絶望のどん底から神様によって起き上がらせられました、そして「行きなさい」、主にある平安の中に歩んで行くことができました。何よりも彼の救いとなったこと、それはこの時を境に、自分は神様から決して隔離されていないと信じることができたことです。
 最後、この男の中に、私たちは、一人ひとりの神様との出会い、いま教会でイエス様を通じて神様に感謝・賛美をささげている自分たちを重ねてみてしまいます。私たち一人ひとりもこれまでの人生の中で、この戻って来たサマリア人の様に、悲しく、癒されたいことを抱えていた、あるいは神様から疎外されていると思う様な不幸もあった、しかし、教会でイエス様と出会い、癒された、そして神様の憐みを知った、だから教会で神様に感謝しているのだと思います。そして、また1週間、起き上がらせていただき平安の内に歩んで行けるのです。