2022年10月16日     聖霊降臨後第19主日(C年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「絶やさず祈ることとは」【ルカによる福音書18:1−8】

 本日の譬え話を現在的に聞きますと考えられない話のようですですが当時のユダやでは在り得る話であったみたいです。さて2人の登場人物がいます。まずは裁判官です。
 当時のユダヤ人同士の民事的なもめごとが起こると大抵は長老のところに持ち込まれそこで解決していたようですからこの裁判官はユダヤ人ではなかったのではと考えられます。
 長老のところで解決できない問題を調停するには通常3人の裁判官がたてられるのだそうです。原告からと被告からそれぞれひとり、最後の1人は両者とは別個に指名されると決められていました。裁判官というより今でいう弁護士みたいですね。
 その際の裁判官は王ヘロデかローマ政府によって任命された判事らしいのです。ところがその裁判官にまた悪いものが多かったようです。原告つまり訴えた方は賄賂などを贈与、また判事の方も正義や公平さなどは金のために平気でねじまげていたようです。民衆も半ばそんなものだと諦めていたようなのです。
 さて次の登場人物は夫を失った女性です。彼女はここでは「弱い者の象徴」として描かれています。この人にはお金もなかったので裁判官に裁定を自分に有利にしむけることは無理でした。でも彼女には別の武器がありました。それは彼女のしつこさでした。結局彼女の執拗さが勝利したわけです。
 さて、この譬えでイエスさまは何を言いたかったのでしょうか。もちろんこの不正な裁判官を神さまになぞらえては全く見当違いでしょう。
 イエスさまはたぶん「この不正かつ貪欲な判事もついには根負けして夫を失った女性に有利な判決を出したというなら愛とあわれみに富んだ神さまはその子たちが必要としているものを豊かに下さるに違いない。」と言いたかったのでしょう。
 でもだからといって親はその子どもが欲しがるものすべてを与えるという意味ではないでしょう。親はときには子どもの要求するものを与えないこともあります。子どもの要求するものが、その子にとって害あるものである場合もあるからです。
 人間は自分がこの先どうなっていくかわからいものです。人は去り行く時間というものを認識するのみです。神さまだけがその人間の与えられている時間全体を見ておられるわけです。したがって何がどの時点でわれわれのためになるか何が本当に必要なのかをご存知なのは実は神さまだけといえるのではないでしょうか。
 「気を落とさずに絶えず祈れ」とイエスさまが言われたのはそのためなのでしょう。
 ではゆるぎなき信仰で絶えることのない祈りを続けるにはどうしたらいいのでしょう。
 それはその祈りと願いが自分の思いだけでなく神さまのみ旨に叶うことを含んでいなければならないと思うのです。
 自分がいかに無力なものであることを自覚して神さまへの絶対的信頼の信仰を持った時こそ真の祈りといえるのかもしれません。主に感謝します。