2022年11月20日     降臨節前主日(C年)

 

司祭 アンデレ 松山健作

十字架との距離【ルカによる福音書23:35−43】

 10月29日、私はソウルの聖公会大学で学びのために寄宿していました。その夜、起こったことはニュースでも報じられている通り、梨泰院での圧死事故です。158名の命が数時間のうちにこの世を去ることになりました。聖公会大学の学生も2名が犠牲となり、毎夕追悼礼拝が行われました。
 事件に対しては、さまざまな情報と、さまざまな意見が飛び交っています。事故を聞きつけて駆けつけて一人でも助けようとする人、現場で呆然とする人、酒によって大騒ぎする人、なぜそんなところに集まるのかと罵る人、死にゆく人を見ながら嘲笑う人、警備体制の不備を追求する人、家族が急逝し悲しむ人などなどさまざまです。これから真相究明と責任追及がなされるでしょう。
 ルカによる福音書23章35節以下には、十字架にかかるイエスさまを中心に、さまざまな人々の模様が描かれています。@立って見つめている「民衆」、彼らは十字架の事件を傍観していたのでしょうか。傍観しているように見える「民衆」ですが、イエスさまが息を引き取った後、胸を打ちながら帰っていった人々もいたようです。(23:48)A嘲笑う「議員」、彼らは「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と、イエスさまを嘲笑い試します。彼らは、イエスさまからは遠く離れていたところで嘲笑って見ていた可能性があります。Bイエスさまを侮辱する「兵士」、彼らは、当時の一般民衆の飲み物である「酸いぶどう酒」を差し出しながら、「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と、近いところで直接イエスさまに声をかけて侮辱します。C「犯罪人の一人」、彼は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、罵ります。D「もう一人の方」(もう一人の犯罪人)は、イエスさまに対して「この方は何も悪いことをしていない」と、キリストの十字架に異なる見解を示します。
 ここには5つの立場が登場し、それぞれ十字架との距離が見て取れます。しかし、大きく分けると、@イエスというユダヤ人の王とされ、メシアと言われる人物に対して、十字架にかかったままであるゆえに、イエスはメシアでないと考える人々と、Aもう一人の犯罪人のように、犯罪を犯した報いとしての十字架にかけられた自分たちと、悪いことは何もしてないのに一緒に同じ刑を受け、ともに死を担おうとしているイエスさまの存在に気づいている人が描かれています。十字架の事件を見る人々には、さまざまな立場があり、さまざまな意見がありました。その中には、イエスさまは十字架から降りられないのではなく、むしろ降りないことによって無実な人が死による苦しみを受けるメシアであることに少数の人々が気づいたと思われます。
 さて、私たちは、どのように十字架との距離を保ち、どのような十字架観を持ち合わせているでしょうか。私たちの生きる世では、無実のまま死に向かっていく人々がいるという現実を目の当たりにします。イエスさまその苦しみを担い十字架にかかられます。その際、聖書は、私たち自身の十字架との距離を問いかけています。それはイエス・キリストの十字架を見て、私たち自身が、どのように生きていくべきかへの問いかけです。私たちは、日々の祈りの中で十字架への想いを深め、イエス・キリストがこの世に示される救いに導かれたいと思います。