2022年12月11日     降臨節第3主日(A年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

 イエスさまに先立って、神さまのほうへ生き方の向きを変える(=悔い改める)ようにと、激しい言葉で訴えた洗礼者ヨハネは、イザヤが「荒れ野で叫ぶ者の声」と預言した存在でした。ヨハネは、悔い改めの洗礼を人々に宣べ伝えていました。彼が人々に促したのは、神さまの掟(律法)を守るという行動を基準として、救われるかどうかを「人間」が判断することに対して、それは違うと説いたのです。特に律法を守ること=行動を重視している人々に対しては、律法を守る/守らない/守れないという行動ではなく、心の向きそのものが問われているのだということを指摘したのでした。
 洗礼者ヨハネが牢に閉じ込められたのは、当時の領主ヘロデが自分の兄弟の妻と結婚したことを律法に違反していると糾弾したことで、逮捕されたという記録があります(マルコ6:17−19)。彼は逮捕され、自分の活動ができなくなったあと、イエスさまの活動を耳にします。ヨハネは自分の弟子を送って、ユダヤの人々が旧約聖書に預言され、待ち望んでいた救い主なのか、と尋ねさせました。
 イエスさまは、ヨハネの弟子たちに「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らせている」様子を彼に伝えるように、と言われました。
 洗礼者ヨハネは激しい言葉で神の裁きを訴えながら、神さまのほうへ生き方の向きを変えることを人々に訴えていました。それに対してイエスさまは、裁きではなく、出会った人々に神さまの愛と赦しと回復を伝えていたのですから、彼から見て、「ぬるい」と映ったのかもしれません。
 旧約に描かれている神を「激情の神」と表現することがあります。それに対して新約に描かれている神は「愛」を強調することが多いです。しかし旧約の神が、相手を思う愛の深さ故の激情であるとすれば、いずれも神は愛であることに変わりはない、と思うのです。
 相手のありのままを指摘して、裁きを訴えながら神さまに立ち返ることを促した洗礼者ヨハネのアプローチと異なり、すでに十分に与えられている神さまの愛に気づくことから、神さまのほうへと生き方の向きを変えること。それがイエスさまのなさったことであり、クリスマスにお生まれになった方の言葉と行いなのでした。