司祭 クレメント 大岡 創
私たちが主のご降誕の喜びへといざなわれていくこの時に、本日の福音書(ルカ1:39−45)から二人の女性の出会いと、その出会いによって起こる喜びの出来事に耳を傾けたいと思います。
二人の女性の一人はエリザベトです。夫のザカリアも祭司です。二人には子どもがなく、ザカリアが神殿の務めを果たしていたときに、天使が現れてエリザベトは子どもを産むことを告げます。ザカリアも年を取っていましたが天使のお告げのとおり、エリザベトは身ごもります。
もう一人の女性はおとめマリアです。マリアは年若い娘でヨセフのいいなづけでした。彼女が天使のお告げを聞いたのは十代半ばくらいであったと言われていますから、その戸惑と驚きは想像を遥かに超えたものであったでしょう。
天使の挨拶は、マリアに対して祝福に満ちたものでしたが、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(1:32)「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1:35)という天使の言葉は、畏れ多いものでありました。自分の思いを遥かに超えた神さまの大きな救いの業の前に立たされて、マリアはどう応えていいのか、答えに窮したに違いありません。神さまの働きのために自分が選ばれたことは、本当に間違いないのかと。
私たちが、自分がどのように生きていこうかと考えるときは、自分に与えられている能力や経済的なものなど、を算段することから始めるのが一般的です。その通りにいけば満足し、いかなければ、運が悪いなどと嘆く。自分の計画が先からです。無理な計画をたてず、敷いたレールの上を歩むこと。リスクは最小限に抑えられる道です。そうした生き方を打ち破って「神さまの働き」は起こってきます。私たちにとっては、時に、折角順調に行っていた歩みを邪魔されるようなものに感じたり、急に他の人たちの関心の的になったりするようなものだと思えるのです。
エリザベトに起こったことも、マリアに起こったこともこのような出来事だったのかもしれません。しかし、マリアはエリザベトに起こったことを天使から聞いて悟ったのです。神さまの恵みが人の思いを超えて働きだしたことを。その同じ神さまの恵みにマリア自身も包まれるために、今、天使のお告げが「自分」に語られていることを。そして、神さまの前に、み言葉が実現する「器」として用いられるようにと、「自分」を差し出しました。
天使がマリアに現れて、挨拶したときの言葉は、今日の福音書には記されていませんが、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」という言葉です。どんな祝福の言葉も「主はあなたとともに」の言葉に尽きるのではないでしょうか。その祝福をマリアとエリザベトは互いに喜び合い、挨拶を交わしたのです。教会の交わりとは、そのように「主はあなたとともに」と祝福しあうことではないでしょうか。高齢化していく社会にあって、人が生き生きするために必要なものが三つあると言われます。まずは「仲間」次に「自分が人の役に立っているという実感」そして「ハプニング」・・・自分の予定にはなかった、予想外の出来事に心がうごめくこと、マリアも「このような自分であっても神様に祝福されている」という「ハプニング」に心が最も高鳴ったのではないでしょうか。
神さまに祝福されている喜びを告げるのがクリスマスです。それはどのような境遇の人々であっても祝福と喜びにあずかれるように、と招かれていることを覚えたいと思います。
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