まじわり139号

2011年7月17日発行

【巻頭言】 「公平と正義」                                         司祭バルナバ菅原裕治

イザヤ書第五九章一〜二一節

 預言書であるイザヤ書の後半部分は、バビロン捕囚の終了とそれ以後について記されています。国家の滅亡とそこ

からの再建に直面し、神様の意思を伝えた預言者の言葉は、現代の私たちにも大きな示唆を与えるものです。

 サウル王によって始まったユダヤ人の王国は、ダビデ王、ソロモン王とその領土を拡大しましたが、ソロモン王の死

後南北に分裂し、紀元前722年に北のイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。

南のユダ王国も、新バビロニア帝国によって紀元前597年に占領され、紀元前586年にエルサレムは神殿を含めて

破壊され、ユダのゼデキヤ王を始めとして多くの人々がバビロンに連行されていきます。いわゆる「バビロン捕囚」の始

まりです。この民族的あるいは国家的危機を救ったのは、外国であるペルシャ帝国、そしてその王キュロスでした。キュ

ロスは、紀元前537年に新バビロニア帝国を滅ぼし、ユダヤ人たちに故国に戻る許可を与えます。そのためキュロス

は油注がれたもの(メシア)とも呼ばれています(イザヤ書四五章一節)。外国人であってもメシアと呼ばれることから、

神様の意思が人間の意思を超えていることが分かります。

バビロン捕囚から解放されたユダヤ人は、後の王達の許可の下に、国を再建し、神殿を再建し、そして信仰を回復しよ

うとします。しかし、歩みは決して順調な道筋ではありませんでした。ペルシャ帝国は、ギリシャとの戦争に突入し、パレ

スチナの地は再び混乱の中に入り、ユダヤの人々は、自分たちで再建に向けて歩み始めるのですが、そこで作られ始

めた社会は、人間の思惑や利権が先行する社会に他ならなかったからです。

そのような社会に対して、民衆の中から神に対する不満が現われます。神様は一体何をしているのかという問いかけ

です。

預言者は、それに対して答えます。

「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」(五九章一節)。

預言者は、人々の罪と不義と悪が、神の業が働くことの妨げになっていると語っています。そして罪、不義、悪、これら

三つによって成立している社会に何が足りなくなっているのかを明らかにします。それは正義と真実と正しさと平和と公

平と救いです。

これらを欠いた結果は、為政者の神に対する反逆と民に対する暴虐に他ならないのです(五九章一〜八節)。

「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、

闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」と語り始める預言者は、この希望のない社会の状態を深く嘆

くのですが(九〜十五節)、彼には神様がこのような状態を決して喜ばれないという確信があります。単なる絶望に終わ

らないのです。深い悲しみと絶望があるからこそ、神様への信仰が深まっているのです。

「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。これは、わたしが

彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなた

の口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の口からも、今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言

われる」(五九章二十〜二一節)。

預言者は、神様が自らの義を守り、人々をその行いによって報い、主の霊がこの世界に現われると確信しています。

そして主は、贖う者を出現させ、新しい契約として、その人に霊を与えると語っているのです。

この預言者の言葉から示されることは、人間の本質です。それは王国の分裂、国家の滅亡という大惨事に直面し、バ

ビロン捕囚という苦しみから、神様が遣わしたメシアによって救い出されたにも関わらず、その後もまっすぐに神様に立

ちかえることが出来なかったという人々の姿に表れています。

また神様には救いの力がないのかと問いかけてしまう姿にも表れています。それらの姿は、国家規模の大きな悲しみ

を経験したにも関わらず、そしてそれが自分たちの罪と不義の結果であるにもかかわらず、その原因を反省・改善せ

ず、神様に責任を転嫁していることにほかなりません。

創世記のアダムとエバの姿にあるように、人間は本質的に責任を転嫁しようとする部分があるのです。神様に責任を

転嫁し続ける時、人間は自らの過ちに気付くことができません。そのような人間に対して、預言者は、神様とは、そのよ

うな人々の悲しみに無力な存在なのか、神様を信じるとは、ただ責任を転嫁するための行為なのか、預言者はそう問

いかけているのです。そして神様を真に信じる時、人間は自らの過ちに気付くことができるのではないかと語っている

のです。

たとえ神様など信じない人であっても、他者や自然現象に責任を転嫁している限り、同じように自らの過ちに気付くこと

はないと言えるでしょう。

深い悲しみと嘆きに直面した預言者の姿からは、また別のことを知ることができます。彼は、滅亡から復興するはずの

社会にみられた人間の罪、不義、悪に直面し、深い嘆きと悲しみを感じると同時に、神様だけが正しい方であるという

確信を新たにするのです。悲しみや嘆きなどは、少ない方がよいことは明らかです。逆に笑ったり喜んだりできる機会

が多い方がよいでしょう。しかし、表面的な平和は、その社会に潜んでいる神様に対する人間の罪、不義、悪を覆い隠

してしまう場合があります。そして他者の嘆きや悲しみから気がつかないようになってしまう場合があります。

伝道の書七章三節に「悲しみは笑いにまさる」という言葉がありますが、その短い言葉にあるのは、それは悲しみや嘆

きのある人生の方が、意味があるという知恵です。国家の混乱の中で、多くの人々は自らの在り方を顧みず、ただ神

様を批判していたのですが、預言者は、現実を直視し、深い悲しみと嘆きを感じると同時に、そこに神様へ立ちかえる

深い意味を見出したのです。

私たちは、この預言者の語った贖う者を、主イエス・キリストとして受け入れています。私たちは、主イエス・キリストを通

して神様を信じます。しかし、信仰の在り方、この世界での生き方は、この預言者と同じです。私たちの住む世界にも、

様々な嘆き悲しみがあります。希望を失ってしまうようなことも多くあります。

そして神様はどこにおられるのかという問いを持ってしまうこともあります。

しかし、だからこそ、神様への確信を失わなかった預言者の姿から多くのことを学んでいきたいと思います。

そして希望を失わないで生きていきたいと思います。

トップへ
トップへ
戻る
戻る