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2010年12月19日発行
【巻頭言】 「諸国民の光」 司祭バルナバ菅原裕治
旧約聖書の「イザヤ書」に「主の僕」という不思議な人物が記されています。この「主の僕」は、バビロン捕囚前後に存
在した人物を想定していると思われますが、歴史上誰を指しているかは明確ではありません。ただし、私たちにとって
は、イエス・キリストを想起させる存在として重要です。イザヤ書49章には「主の僕」の使命について記されていますの
で、ここでは49章一節〜二一節から「主の僕」の全体的な方向性について考えてみたいと思います。
一〜三節では「主の僕」の召命について記されています。一節に、「主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にある
わたしの名を呼ばれた」とあり、彼が生まれる前から神様によって召されていたことがわかります。この表現は、預言者
エレミヤの召命と類似しています(エレミヤ1章5節)が、それは彼が彼自身の能力や適性を超えて、神の意志によって
最初から重要な人物として神に選ばれた存在であることを意味しています。四節に「わたしは思った、わたしはいたず
らに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」と嘆きの言葉を語ります。それはエルサレム帰還という預言がなかな
か実現しないからです。しかし6節前半には、「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエル
の残りの者を連れ帰らせる」とあり、神が「主の僕」を用いてイスラエルのパレスチナ帰還を実現するとあります。しか
し、後半部では「だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とす
る」とあり、イスラエルのパレスチナ帰還よりもっと重要なことがあり、それは諸国民の光として「わたしの救い」つまり神
の救いを地の果てまで至らせることであると記されています。さらにその方法として七節〜九節で神は、「イスラエルを
贖う聖なる神、主は人に侮られ、国々に忌むべき者とされ支配者らの僕とされた者に向かって、言われる」とイスラエル
の政治的経済的解放者として諸国民から忌み嫌われ、侮られる僕を立てると語っています。バビロン捕囚という歴史
的な出来事を通して、人間の思いを超えた仕方で、そのことを解決し、また解決自体も最終的に人間の思いを超えた
神の救いを地の果てまで至らせることであると述べているのです。
一〇節〜一三節で神は、バビロン捕囚の解決として、シオン・イスラエルの人々の回復について述べています。しか
し、14節では当のシオン・イスラエルの人々は、「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」と自
分たちが見捨てられ忘れられたと嘆いています。エルサレムに積極的に戻ろうとはしないのです。しかし一五節〜二〇
節で神は、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女た
ちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と再びシオンを決して忘れず、エルサレムは大いに栄え
ると語るのです。それでも二一節でシオン・イスラエルの人々は、やはり自分たちは忘れられ、たった一人だと嘆き続け
るのです。
この箇所から、「主の僕」の存在を通して三つのことを学びたいと思います。第一は、その使命です。神の救いを地
の果まで至らせるという使命です。それは単にユダヤ教の救いや、キリスト教の救いを宣教しようということではありま
せん。それは「主の僕」が生まれる前の事柄、言うならば、天地創造の初めにある事柄に関わることです。神は人間を
神の像として創造されました。それは人間が他の被造物に比べて偉いということではなく、また優れているということで
はなく、神の僕として立てられたことを通して、人間が神を知り、またその僕である人間が、自分たちが何によって動か
されているかを知る様に創造されたのということにほかなりません。そしてその使命は民族や国家を超えるものなので
す。
第二は、その使命を誰が負うかということです。ここで神は、その使命を負うのは人々から侮られ忌み嫌われる者
であると語っています。ここには逆説があります。人間の知恵・思いと神の知恵・思いは異なるのです。人間はそれを理
解しない場合があります。それ故、人間の知恵と思いで優れたもの、素晴らしいものと判断できないことがらを受け容
れられない、あるいは自分たちの思い通りに神が現われない、神が行動してくれないと考える人間に対して、神はあら
ためて信仰への問いを、何を信じようとしているのかという問いを起こさせます。ここではバビロン捕囚という破壊的な
出来義とを通してそのように示しているのです。
第三は、人間は一人ではないということです。シオン・イスラエルの人々は、バビロン捕囚という出来義とを通して、
自らの責任からのそのような出来義とが派生したにもかかわらず、神から見捨てられたと考えました。さらに預言者を
通してそこからの解放と、新たな使命を示されたにもかかわらず、それを受け容れられませんでした。自分たちの知恵
と思いが、神がそばにいてくださることを分からなくしてしまっていたのです。しかし、神は、人間の悲しみはすべてご存
じであり、 神は決して苦しまれている人を忘れる神ではないと答えているのです。
私たちはもうすぐクリスマスを祝います。御子イエス・キリストの誕生を祝います。この世界に果てまで神の救いをもた
らしてくださる方の誕生を祝います。その方の誕生の仕方は、私たちの人間が知恵や思いで理解できるような誕生の
仕方ではありません。その活動も決して、政治的あるいは軍事的、あるいは経済的に何か優れた方法を用いた活動で
はありませんでした。しかし、どんな人であっても、どんな状況であっても一人ではないということを示してくださるような
方法、そばに一緒にいてくださるような方法でした。そこに本当の救いがあります。そしてだからこそ諸国民の光である
のです。
私たちは、私たちが祝うイエス・キリストの誕生が、まさにイスラエルの歴史的出来事に関わった神の意志に沿うもの
であることを改めて確認したいと思います。そして御子の誕生を祝うことを通して、私たちが神の掌に刻まれているとい
う慰めを得たいと思います。そしてこれからも真の主の僕である主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、私たち一人ひとりに
与えられた使命のために歩み続けたいと思います。
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