18:28 2018/10/15 東京聖テモテ教会 - 主日の福音

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★太田信三 司祭による主日の福音

★主日の福音(2021年6月20日)
「いったい、この方はどなたなのだろう。」(マルコによる福音書4:35−5:20)
 今日の福音では、弟子たちに危難が襲いかかり、試されます。彼らは、はじめて挑戦を受けました。とんでもない恐怖の出来事でした。彼らは怖れに囚われました。これまで、いつも主イエスのそばにいて、奇跡を目撃してきました。その主イエスを疑うほどの恐怖でした。しかしこの恐れの中でこそ、彼らははじめてこれまでも一緒に旅をしてきた「イエスという男」がどのような方なのか、気付き始めることになります。そしてここから、弟子たちと主イエスとの真の出会いの旅が始まります。
 船が荒波に飲み込まれそうなり、狼狽する弟子たちに対し、主イエスは眠ったままです。完全に神に信頼しているからです。神はその信頼に応えて荒れ狂う波を静められました。これを目の当たりにした弟子たちは恐ろしくなり、「いったい、この方はどなたなのだろう。」と問います。荒波の恐ろしさもさることながら、目の前で人知を超えた出来事を起こした人間に対し、得体のしれない恐怖を抱くことは理解できます。ゾッとすると言いますか、畏怖と言うのでしょうか。奇跡物語はイエスという男が誰であるかを指し示す「しるし」です。水戸黄門の印籠を見て、人々が目の前のご老人が何者かを知り、「ははー」となるように、イエス様の奇跡もそれを見た者に、イエス様が何者であるかを知らせます。しかし印籠とは異なり、奇跡によって示されるものはすぐには理解できないものです。ですから、一体これは何だ?という疑問がまず起こります。しかしこの問から、イエスという男を知る旅がはじまります。
 というのは、今日の福音にはじまるマルコによる福音書の4章35節~8章26節までには、五千人の供食やイエス様が海の上を歩く話しをはじめとする奇跡物語が語られます。この一連の奇跡物語の締め括りである8章29節では、ペトロが「あなたはメシアです」という信仰告白をします。つまり、一連の奇跡物語によってペトロは、主イエスがメシアであることを知り、信仰告白へと導かれるのです。奇跡はイエスが救い主メシアであることを示す「しるし」だからです。今日の福音で「いったい、この方はどなたなのだろう」という問を得た弟子たちは、これから示される奇跡という「しるし」を目の当たりにすることで、主イエスが救い主、メシアであることを知ることになるのです。
 先日、本駒込駅からすぐの、区立の駒本小学校の六年生二クラスに授業をする機会をいただきました。テーマは、「平和について」ということでした。あるときに先生が児童に「今の日本は平和だと思いますか?」と問いかけたところ、全員が「平和だと思う」と答えたことを受け、これはこれで良いことだと思いつつも、先生は強い違和感を憶え、今年一年掛けて「平和について」学び、最終的には自分たち自身でなにかできることはないか、具体的アクションまで結びつける授業を企画されたということでした。とても素晴らしい先生だと思います。ただし、わたしでいいのだろうか…とは何度も思ってしまいましたが、それでもお引き受けしたのは、「本当にそう?」と問いかけることがイエス様がこの世で大切になさったことであり、聖職がこの世界で常に持ち続けなければならない姿勢だと感じたからです。人々が当たり前のように思っていること、考えていることに対して、イエス様は「本当にそう?」と問いかけました。それにより、ある目の見えない人は、「罪故にこの人間は盲目になったのだ」という人々からの「決めつけ」による差別から解放されました。また罪深いとされた女性が人々から石打の刑に処せられそうになっていた時には、「では、罪を犯したことがない人間からこの女性に石を投げなさい」と問いかけられ、それぞれのうちに問いを起こさせることで、人々を真理へと導いたのです。聖職の役割もまた、イエス様のようにはいかないことばかりですが、世界が愛から離れそうになっている時に、「本当にそれで良いのか?」と問いかけることです。また、世界の考え方が命を軽んずる方向に向かっているならば、世界に向かって、神が命を祝福されたことを告げ、命を大切にするようにと世界に問いかけることです。そのために、覚悟を決めて、小学6年制の授業を引き受けました。たった一人でも、「あたりまえに平和」と思っていた現実に、「本当にそう?」という疑問を持って帰ってくれたなら良かったなと思います。
 宗教は人を思考停止させるものだ、などと言われることがあります。そういう宗教もあるかもしれません。しかし、キリスト教は全く違います。むしろ、いつでも「本当にそうか?」「これは一体どういうことだ?」と問を突きつけてくるものです。究極的に言えば、神を疑うことすらもまた、信仰生活においては重要なプロセスでありえます。今日読まれた旧約聖書、ヨブ記がまさにそのことを告げています。今日の箇所は、苦しみの中でついに神への恨み節を炸裂させたヨブのもとに神が顕現する箇所です。つまり、疑いや叫びの先にも、神が現れてくださる。むしろそこでこそはっきりと神の声をヨブは聞くのです。信仰生活において問うことは禁物では決して無い、ということです。むしろ主イエスとのまことの出会いは、主イエスを見つめることで生まれてくる問いの中で導かれます。たとえば、わたしたちも、奇跡物語を読んで、一体これはどういうことだろうか、と問う。片側の頬を叩かれたら逆の頬を出せ、そういうイエスさまの言葉に対して問う。聖書を通して、イエス様はわたしたちにたくさんのチャレンジをしてくる。そのチャレンジはわたしたちを霊的に導くもの、育てるものなのです。
 荒れ狂う波に揺れる船は、教会にたとえられます。ならば、どうでしょうか。わたしたちは、主イエスのように、完全に神に頼れるでしょうか。わたしたちは動揺し、葛藤するのです。それは無理だ、現実は厳しい、と言って、問うのです。イエス様、それができるっていうあなたは一体何者なのですか。しかしその問こそが、主イエスを真に知るための出発点になるのです。失敗は発明の母、という言葉があります。わたしたちと主イエスとの出会いもそうです。できない、一体あなたは何者なのだ!その叫びが主イエスとの出会いにつながるのです。そうしてはじまる信仰の旅の中で、わたしたちは主イエスと真に出会うことになるのです。
 わたしたちは、決して忘れてはならないことがあります。それは、この船の上で動じることがなかった主イエスが、十字架の上で死んでしまう、ということを、です。十字架上の主イエスの姿こそ、わたしたちに最大の問を突きつけます。なぜ正しいイエスが十字架上で死ななければならなかったのか。そこにあるのは、自分の命を差し出してまで、神に従った男の姿です。何のためでしょうか。どうしてでしょうか。わたしたちは問わなければなりません。いや、十字架上の主イエスの姿を見たならば、問わずにはいられないはずです。その問の先に、真の救い主の姿をわたしたちは十字架の上に見ることになるのです。十字架の死を目の当たりにした百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白をしました。わたしたちもまた、十字架上の主イエスを見つめるとき、真の答えへと導かれます。そこに、わたしたちの救い主の姿がある。
 さあ、この礼拝から主イエスとの出会いの旅に出ましょう。主イエスを見つめ、わたしたちに迫ってくる問にとどまりましょう。必ずその先に主イエスとの出会いがあります。そのことを信じて、この礼拝をおささげしてまいりましょう。

★主日の福音(2021年6月27日)
「ただ、信じなさい」(マルコによる福音書5:22-24,35b-43)
 誰もが「もう終わりだ」と思ったヤイロの娘に、命が与えられました。先週の福音では、主イエスが荒れ狂う風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われると、風は止み、すっかり凪になりました。そのことから、主イエスの背後にはいつも神がおられ、神は自然を治めることをわたしたちは示されました。そして、イエスは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」この言葉を心に反響させながら今日の福音を聴くと、より一層今日の主イエスの言葉が深く沁みてきます。
 今週も先週に続き、奇跡の話しです。人間にとって死は終わりや絶望の象徴です。神は死をも支配する、ということが今日の福音では示されます。このことは何よりも主イエスの復活によって示されることですが、人の目にはもう終わりだ、と思われることであっても、神にはそうではない、ということです。「もう、おしまいだ」という人間に、「タリタクム、起きなさい」と主イエスは語りかけ、「その先」へと導かれるのです。そのことを「ただ、信じなさい」と主イエスは言われます。わたしたちの目には「死んでいる」ように見えても、神が共におられる主イエスにとっては、「寝ているだけ」なのです。「命」をも神が治めることを、主イエスは知っており、信じているからです。この「ただ、信じなさい」という言葉こそ、先週の福音の最後の「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」という主イエスの言葉と呼応しています。嵐を静めた神の力は、命をも支配します。人は時に、「これは神でも無理だろう」「神とて、死には勝てないだろう」という思うものです。ことに、苦しみや困難の中ではなおさらそう感じるでしょう。そのような時には、どのような説明も慰めの言葉も、力を持ちません。だからこそ、主イエスは端的に、「タリタクム、起きなさい」「ただ、信じなさい」とだけ語るのです。絶望の中でできうることは、ただすべてを治める神に頼るしか無いからです。しかしそこにこそ、絶望の先、「もう終わりだ」の先の希望の光が、わずかにも差し込むのです。なぜなら、「これは神でも無理だろう」「神とて、死にはさすがに勝てないだろう」という呼吸もできぬほど隙間のないところに、例外無き神の思い、つまり自分の中からは生まれることない神からの「可能性」が与えられるからです。神は例外なく、死を超えて、人を命の方へ、希望の方へと導く方であることを「ただ、信じる」道がそこから広がります。
 信じることが出来なかった人々への主イエスの要求はとてもシンプルなものです。「信じなさい」。先週の福音では、弟子たちは「恐れ」ゆえに信じることが出来ませんでした。彼らはこれまでにも、奇跡を見てきたし、教えも聞いていました。しかし、そんな弟子たちであっても、嵐を静める主イエスに恐れをいだき、「いったい、この方は何者なのだろう」という疑問を与えられました。自分の了解可能な範囲で主イエスを捉えよう、またその背後にいつもおられる神を捉えようとしても、それは出来ません。神はわたしたちの想像や了解可能な範囲に収められるほど小さくないからです。だからこそ、旧約聖書では神に名前をつけることを禁じています。名前をつけた途端、神を名前の中に閉じ込め、自分の了解可能な範囲に引き下ろしてしまうからです。その神はもはや神ではなく偶像です。そうしないために、旧約聖書では、たとえば「熱情の神」などのように、「形容詞」によってのみ呼ばれます。そしてそのパターンは500以上にも及びます。それほどに、神は人間には捉えきれるものではない、ということです。今日の福音では、人々は「死」という現実に直面しています。死こそ、人間の了解可能な範囲外へと、身近な人が行ってしまう出来事です。だからこそ、人はその人との永遠の別離を感じ、深い喪失感に支配され、まして復活などということを信じることなど到底出来なくなってしまいます。わたしたち人間はどうしても、分かる範囲、想像できる範囲の中でしか、「信じる」ことが出来ないのです。しかし、わたしたちはあらためて立ち返りたいと思うのです。神を自分の了解可能な範囲に収めるのではなく、分かり得ないものとして、しかし必ずわたしたちに「命」を、「希望」を与えてくださる愛の神であることに立ち返りたいのです。神は時に人知を遥かに超えた方法によって、わたしたちを愛によって生かしてくださいます。
 人間の「枠」に収まらない神との出会いは、愛の実践の中でも見いだされたことでしょう。今日の旧約ではこのような一節がありました。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15:11)申命記は、40年荒野をさまよったイスラエルが、いよいよイスラエルの地に再び入る時に、これからの日々、神から離れることがないように、またその地でイスラエルの民が平和に暮らせるようにと、再び律法が明示された書物です。ですから、この一文もまた、人間が平和に生きるための神からの大切なメッセージです。たしかに貧しい者がいなくなることはないかもしれない。しかし、あなたがたは助け合わなければならない。自分のものを握りしめるのではなく、大きく手を開くところに、他者との本当の平和が訪れる、ということを示しています。そのことを、今日の使徒書のコリントの信徒への手紙では次のように言い換えていると言えるでしょう。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」東京聖テモテ教会のみならず、大いなる教会の歴史はまさに、これらのみ言葉が示す実践、すなわち自らだけのために手を握りしめるのではなく、他者と共に生きるために「手を大きく開く」ところにこそ、まことの平和が訪れることを経験してきました。この事実もまた、わたしたちが「自分の範囲、枠」を超えて、神に信頼することにこそ道が開かれることを示しています。たとえばわたしたちは自分のため、また肉の家族のためにばかり財産を握りしめることが良しとされている世界に生きています。しかし、その世界にありながら、そうではなく手を開いて分かち合う世界に生きようとするところにおいてこそ、神を知る、真の平和を実現する道が開かれるのです。そしてその実践においてこそ、わたしたちは神と出会い、死をも超えた希望をいただくことができます。
 神が望まれるのは、主イエスがそうであったように、いつも神を見つめることです。自分の了解可能な範囲、自分の限界の内に神を収めるのでなく、神の偉大さにこそ自分を委ねることです。つまり、「ただ、信じなさい」ということです。死者をも生き返らせる神には、必ず希望があります。その神様を見つめ、神様にある希望、喜びに生きること。その神にある喜びを生きる命は必ず輝きます。なぜなら、希望に照らされているからです。この世の命が暗闇にあるとき、絶望に支配されそうな時にも、その命の輝きがこの世を照らします。神を見つめ、命を輝かせ、この世を照らす。皆が、互いが輝きを持ち寄れば、この世の闇は消し去るのです。これがわたしたちの使命です。
 先人たちがそうであったように、どんな苦難にあっても「ただ、信じなさい」と言われる主イエスの言葉を信じ、「信じます」と答えて歩んでまいりましょう。そしてあらためて今日、召されて主イエスのみあとに従ってきた先人たちの信仰に照らされ、わたしたちも神を見つめ、信仰の歩みを新たにしましょう。わたしたちを呼び集めてくださっている神の絶えることのない希望に照らされながら歩んでまいりましょう。

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