Sunday's Gospel

主日の福音

太田信三司祭による主日の福音メッセージです。最新分を掲載するとともに、過去の説教は PDF でご覧いただけます。

最新の主日

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2026年7月5日

聖霊降臨後第6主日(A年特定9)マタ 11:16−19、25-30

「希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」

軛(くびき)とは、もともと家畜の首にかける曲がった木材のことです。それに荷台を付け、家畜は荷物を運びます。そこから、奴隷としての奉仕や服従、抑圧の象徴となりました。

マタイによる福音書が記された当時のイスラエルは、ユダヤ戦争で敗北し、神殿は破壊されました。その苦境の中、ユダヤ人は神に立ち返るため、ファリサイ派を中心に律法を文字どおり厳格に守る「律法主義的傾向」を強め、民族の再興を図りました。しかし現実には、律法を文字どおり守ることのできない人や秩序から外れる人は排除されるようになります。人々は律法による軛、すなわち完全であることを求められる重荷を負わされ、疲れ果てていました。彼らが人々に負わせた「軛」は、神に立ち返るどころか、神と人とを分断し、人々を圧迫するものとなってしまったのです。そのような人々に向かって、主イエスは「私の軛を負い、私に学びなさい」と招かれました。

今日のゼカリヤ書の言葉を借りれば、人間は皆「捕らわれ人」です。パウロが語るように、「善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則」に支配され、どうしても神から離れてしまうからです。神に立ち返ろうとしたファリサイ派の人々が、かえって神の御心から離れてしまったことも、その現実を示しています。残念ながら、人は自分の力だけでは、その捕らわれの状態から抜け出すことはできません。

主イエスはご自身を「柔和で心のへりくだった者」と言われます。それは、幼子のように神の憐れみに信頼し、自らの力を誇らない生き方です。そして、「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と言われる主ご自身が、私たちと共に軛を負ってくださいます。だからこそ私たちは、「悪がつきまとう法則」に支配され続けるのではなく、神に信頼して歩む者へと新しくされていきます。

ゼカリヤは「希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」と語ります。私たちはなお弱さを抱え、捕らわれ人として歩み続けます。しかし、その歩みには主イエスが共におられます。主が共に軛を負ってくださるからこそ、私たちの人生は恵みに支えられた歩みへと変えられていきます。だから、私たちにはいつも希望があるのです。

2026年6月28日

聖霊降臨後第5主日(A年特定8)マタ 10:40–42

「一杯の冷たい水」

今日までの3主日、主イエスが十二使徒を選び出し、派遣する際に語った、いわゆる派遣説教が読まれました。今日はその締めくくりの箇所です。これまで主イエスは、弟子たちが狼の中の羊のように遣わされること、迫害や拒絶に直面すること、時には家族との対立さえ経験することを語ってこられました。弟子たちが派遣される世界は、決して生きやすい世界ではありません。人が人を裁き、排除し、自分も他者も小さくしてしまう世界です。その最後に主イエスは言われます。

「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れる。」

ここで主イエスは、弟子たちの能力や立派さを語られません。むしろ、迫害され、小さくされる弟子たちの中に、ご自身がおられると言われたのです。そして最後に、こう語られます。

「私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

この言葉を読むと、「水一杯くらいなら簡単なこと」と思うかもしれません。しかし、当時のパレスチナで水は決して当たり前のものではありませんでした。人々は毎朝、井戸まで水を汲みに行かなければなりません。まして冷たい水が用意されているということは、誰かを迎える備えを怠っていなかった、ということかもしれません。

「あなたを歓迎します。」「ここで休んでください。」

冷たい水一杯は、そのしるしのように感じられます。しかも、その水は自分や家族が生きるための大切な水でもあります。その限られたものを分け与えるということは、「あなたも私たちと同じように大切な存在だ」と認めることに他なりません。主イエスは、そのような小さな歓待の中に神の国を見ておられます。

私たちの社会は、今もなお人を評価し、順位をつけます。役に立つか立たないか、成功しているか、していないか。そうした価値観の中で、人は自分自身を、他者を減点しながら生きています。そして気づかぬうちに、誰かを「小さな者」にしてしまいます。けれども主イエスは、その小さくされた人の中にご自身を見ておられます。ゆえに教会は、この世の評価を繰り返す場所であってはなりません。神に愛されている命を見出す場所でなければなりません。

教会は給水所です。この世で小さくされ、渇き、疲れた人々が立ち寄り、水を飲むことのできる場所です。そして私たち自身もまた、互いに水を汲み、互いに水を飲ませ合うことで生きています。この交わりによって、私たちは「冷たい水」をいつもいただき、備えている者たちでありたいと願います。主イエスは今日も、「小さな者」の中におられます。小さくされ、渇く人を迎え入れ、一杯の冷たい水を差し出す時、私たちはイエスさまと共にいるのです。

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