Sunday's Gospel

主日の福音

太田信三司祭による主日の福音メッセージです。最新分を掲載するとともに、過去の説教は PDF でご覧いただけます。

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2026年8月2日

聖霊降臨後第10主日(A年特定13)マタ 14:13-21

「村ではなく、「ここ」で」

   

夕暮れが迫る頃、弟子たちは群衆を解散させ、村へ食べ物を買いに行かせることを主イエスに提案します。人々が養われるのは「ここ」ではなく「村」だと考えたからです。しかし主イエスはそれを許さず、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言う弟子たちに、「それをここに持って来なさい」と命じます。

   

「五千人に食べ物を与える奇跡」は四つの福音書すべてに記されていますが、この言葉があるのはマタイによる福音書だけです。直訳すれば、「それらをここに、私のもとに持って来なさい」となります。「ここ」とは、主イエスがおられるところです。まことの養いは、「村」ではなく、主イエスがおられる「ここ」にあるのです。

   

弟子たちはパン五つと魚二匹「しか」ないと言いました。当然の感覚でしょう。しかし、主イエスにはそれで十分です。神はゴマ粒より小さなからし種を木になさる方です。小さな種に比べれば、パン五つと魚二匹は、なんと豊かなものでしょう。それが主イエスのもとに持ち込まれると、五千人もの人が「食べて満腹する」ほどのパンとなるのです。

   

マタイは、この場面を「夕暮れ」と記します。夕暮れの食事は、最後の晩餐を連想させます。マタイはこの奇跡の食事を最後の晩餐と結びつけている、と言われます。群衆を解散させようとする弟子たちに「行かせることはない」と言われたことにも、すべての人を主の晩餐へ招く御心が表れています。弟子の役目は人々を散らすことではなく、その場にとどまらせ、主の晩餐へ招き、主イエスがなさったようにパンを分け与えることなのです。

   

主イエスが「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と命じたことにより、パンを分かち合う務めは弟子たちに委ねられました。主イエスの手から弟子たちの手へ。主の食卓に招かれた人々は、主イエスがおられる「ここ」で、分かち合われるパンによって養われます。この食卓は、尽きることのない食卓として時空を超え、二千年後の今、この教会の交わりにも現れています。

   

かつて神がイスラエルの民を荒れ野で養われたように、主イエスも群衆を人里離れた所で養われます。「村」に象徴される社会や経済の働きとは異なる仕方で、主イエスは命の糧を与えてくださるのです。その主イエスは今も「ここ」におられ、命の食卓へわたしたちを招き、養い続けてくださいます。

2026年7月26日

聖霊降臨後第9主日(A年特定12)マタ 13:31-33,44-52

「神は小さなものの内に耐」

   

どんな大木も、元は小さな種です。ゴマ粒よりも小さなからし種であっても、時間をかけて大きな木に育ちます。神は、小さな種の内に、すでに大きな命の可能性を託しておられます。ここに神の御心、神の計らいを感じます。神は私たちの目には小さく、力なく見えるものにこそ心を留められ、力を注ぎ込まれるのです。今日のみ言葉の最後には、終末の時のダイナミックな神の力が表されています。その大きな力が、小さな種に凝縮されて込められている、そのようなイメージです。小さなものにこそ神の御心が注がれているからこそ、私たちは小さなものを通して神を知ることができます。

   

これはすごい話だと思います。天国はどこか遠くにあるのではなく、この世界のからし種やパン種ほどの小さなものを通して表される、ということだからです。思い返してみると、福音はベツレヘムという「小さな町」で生まれた「幼子」によって語られ、天の国はたった五つのパンと二匹の魚によって表されました。それゆえに、主イエスはいつも「小さなもの」を指し示し、私たちの目線を「小」へと向けさせます。空の鳥、野の花に集中するならば、私たちの目は開かれます。そして、その開かれた目と耳でこの世界に生きるなら、「あなたがたは、天の国の秘密を知ることができる」と主イエスは言われます。「点」ほどのものを見つめることから、天の国が開かれます。

   

主イエスはさらに別の箇所で、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であった」と言われています。小さなものに目を向け、忠実であることを求めているのです。一方で、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に気をつけなさい」と言われるように、小さなものに躓きが隠されていることもあります。小さなつぶやき一つに惑わされ、隣人へ不信感を抱いたり、神を見失ったりすることもあります。ちょっとした一言が潮目を変えることは、私たちの日常でよくあることです。主イエスは弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と繰り返し伝えます。主イエスに従うということは、「目を覚ましている」ことなのです。小さな存在にこそ、主イエスは共におられ、神の御心は注がれているからです。

   

また主イエスは弟子たちを、「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人」にたとえられました。私たちも、受け継いできたみ言葉(古い物)を大切にしながら、日々出会う小さなもの(新しい物)の中に、神の恵みを新しく見いだすよう招かれています。そして、そこで見いだしたものを互いに分かち合うのです。主イエスの声を聞き続け、「小さなもの」への眼差しを失うことなく、互いに祈り合い、励まし合いながら、歩んで行くことができますように。

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