Sunday's Gospel

主日の福音

太田信三司祭による主日の福音メッセージです。最新分を掲載するとともに、過去の説教は PDF でご覧いただけます。

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2026年10月4日

聖霊降臨後第19主日(A年特定22)マタ 21:33-46

「その財産を手に入れよう」

       

先週に続き、今日の福音でも、主イエスは祭司長たちに語りかけます。今、この福音書を読むわたしたちには、殺された息子が主イエスを指していると分かります。けれども、このたとえを、わたしたち自身にも向けられた言葉として聞いているでしょうか。

   

農夫たちは、主人の送った僕たちに繰り返し暴力を振るい、ついには息子に手をかけます。「さあ、殺して、その財産を手に入れよう。」息子なら敬ってくれるだろうという主人の期待は、完全に裏切られます。人は不安や恐れから逃れるために、他者から奪ってでも安心を得ようとすることがあります。はじめは「少しならば」と、人よりも多くを得ようとする。しかし気が付けば、「まだ足りない、まだ足りない」と、さらに奪おうとする。そのことが、農夫たちの暴力がエスカレートすることに表されています。心が徐々に麻痺してしまうのです。そしてその思いが、わたしたちの生きる「奪い合う」世界をつくっています。

   

しかし、他者を顧みず、自分の安心だけを求めても、かえって人とのつながりを失ってしまいます。だからこそ、わたしたちは礼拝のたびに唱えます。「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に捧げたのです。」他者の命も、自分の命も、神さまのものだからこそ、大切にできるのです。日々いただく糧も神さまからの賜物です。それぞれに与えられたものを持ち寄り、分かち合うことで、豊かな実りがもたらされます。

   

けれども、「自分のものにしたい」という思いは強力です。礼拝で「すべてのものは主の賜物」と唱えていても、日々の暮らしでは、わたしたちも奪い合う思いに引き寄せられてしまうのです。主イエスは、そういうわたしたちのために十字架にかかってくださいました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」隅の親石は、建物の隅に据える土台の要となる石です。最も尊い方が、両腕を広げて十字架に上り、すべてを手放し、ご自分の命を与えてくださいました。このようにご自分を与え尽くされた主イエスこそが、今もわたしたちを支える隅の親石なのです。

   

わたしたちは、自分の欲望や過ちに、なかなか気付けません。そのわたしたちをも、十字架の主イエスは見捨てず、支えてくださいます。その主イエスに支えられ、十字架のお姿を見つめるうちに、他者から奪ってでも自分のものにしたいというおごりは打ち砕かれ、握りしめていた手が開かれていきます。ご自分を与えてくださる主イエスがわたしたちの土台であるからこそ、わたしたちも、分かち合い、与え合う者へと変えられていくのです。

   

「すべてのものは主の賜物」であることに立ち帰りましょう。隅の親石である主イエスに支えられて、わたしたちも手を開き、与え合う者として、この奪い合う世界へと派遣されていきましょう。

2026年9月27日

聖霊降臨後第18主日(A年特定21)マタ 21:28-32

「立ち帰って、生きよ」

       

今日の福音でイエスがたとえ話をしている相手は、祭司長や長老たちです。宗教的権威者であった彼らには、律法をよく知り、よく守っているという自負があったことでしょう。その彼らは、このたとえでは「弟」に重ねられています。弟は答えました。「はい、お父さん」。この原語原文は、「わたしは準備できています、主よ」と訳すことができます。つまり、 父親の言葉にすぐに応じる、自信に満ちた返事です。たしかに、祭司長や長老たちは、神の指示に従おうという気持ちを持っていたことでしょう。しかし、人間は神の指示を、神が望むように完全に果たせるのでしょうか。もしできるなら、人間はとっくに神に立ち帰り、この世界には平和が実現しているはずです。それができないから、今の世界の現実があるのです。にもかかわらず、その現実を自分もつくり出していると認められない。そこに、人間の罪深さと弱さがあります。この「弟」も、返事こそ威勢が良かったものの、実際には出かけませんでした。

   

他方、「兄」は「徴税人や娼婦」に重ねられています。当時、徴税人や娼婦たちは、律法を守らない者として軽蔑されていました。社会的な立場は、祭司長や長老たちとは対極にあります。多くの人は、徴税人や娼婦たちよりも、祭司長や長老たちの方が正しいと言うでしょう。しかし主イエスは言います。「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」続けて、「なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」と言われます。なぜなら、ヨハネの悔い改めの呼びかけを、多くの徴税人や娼婦たちは聴き、受け入れたからです。

   

彼らは、自分たちが神の御心にかなっていないことを自覚していたのでしょう。「兄」のように、はじめは「いやです」と言って、主の道から外れていました。しかし、自らの生き方に痛みを感じてもいたのでしょう。その痛みが、後で考え直すきっかけになったのではないでしょうか。傷が救いの入口になる、とでも言いましょうか。自らの姿を素直に見つめるところに、悔い改めは起こるのです。

   

徴税人や娼婦たちのように、自分の過ちを勇気を持って見つめ、それを認めるとき、その過ちは恵みに出会うための機会へと変えられます。わたしたちが今日、自らの過ちを認め、自分の正義ではなく神の正義に立ち帰るなら、わたしたちのどのような過去も、神に出会うための恵みへと変えられます。

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