18:28 2018/10/15 東京聖テモテ教会 - 主日の福音

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★太田信三 司祭による主日の福音

★主日の福音(2026年2月1日)
(顕現後第4主日、A年)「幸い」(マタイによる福音書5:1-12)
 今日はいわゆる「山上の説教」の箇所です。詩編2:12「いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて」とあるように、旧約聖書の伝統で「幸い」とは、神と人との関係のなかで起こされることです。そのような前提抜きにこの箇所を読むなら、ただの現実離れした精神論、楽観論と捉えられてしまうかもしれません。神との関係のなかでこそ、私たちには想像も及ばぬ「幸い」が実現します。
 「幸い」の祝福はどのような人にもたらされるのでしょうか。3節の「貧しい人々」と5節の「へりくだった人々」は、同じヘブライ語に辿り着くと言われています。それは「背を曲げる」というヘブライ語です。富や人に頼ることができず、たとえば経済的な貧しさのなかでも、ひたすら神により頼む貧しい人をも意味します。さらに10節には、「迫害された人々」とあります。これらを合わせると、今迫害のなかで悲しみ(4節)、抑圧のなかで神の前に背を曲げ(5節)、神の正しさ、救いを待ち望む(6節)人々に幸いがある。また、そのようななかでも、神にのみ頼り、柔軟に耐える人々には、神からの幸いがある、とイエスは語っています。
 続いて7〜10節では、迫害、抑圧の中にあっても、抑圧する者を憐れみ、彼らとの間に平和を実現しようとする人は幸いである、とイエスは語ります。「憐れみ深い人」とは、他者を赦す心を持つ人のこと、8節の「清い」は思いと言葉と行いとが一つであること、つまり日々の生活や行いにおいて二心の無い人のことだと言えます。このことから、他者を愛し、ただ一つ信じる者が「平和を造る人」であり、幸いな人だということです。
 11節からは、言うなれば、励ましの箇所です。なぜなら、ここから語りかけが「その人たち」ではなく、「あなたがたは幸い」だと変わるからです。イエスが励ます、「あなたがた」とは誰かといえば、まず、当時迫害に苦しんでいたマタイによる福音書著者が属していたクリスチャン共同体です。そして同時に、困難な状況にあるすべての弟子たちです。イエスはそれらの人に、人や自分の価値観に固執する者ではなく、日々、神にのみ頼り、柔軟に耐える人々は幸いであると伝え、励ましているのです。そのような人々がこの世に平和を造り出すのであり、幸いな人です。そのためには、圧迫されても耐え、貧しく生きて、謙遜を失わないようにしなければなりません。イエスでこそが、その道を歩まれました。イエスはさまざまな圧迫にあっても、それを耐え忍び、敵を愛し、彼らとの平和を実現するために十字架に登りました。私たちは、自分の力だけではイエスように歩むことはできません。しかしだからこそ、「幸い」と言われるイエスの励ましを受け取ることができるのです。イエスの背中を仰ぎつつ、イエスの言葉に励まされながら、幸いな道を歩んで行くことができますように。

★主日の福音(2026年2月8日)
(顕現後第5主日、A年)「神様の愛を無にしない」(マタイによる福音書5:13−20)
 イスラエルの民には、神からの律法が与えられていました。律法には、「これを守れば人は神から離れることなく、互いを大切にしあい、平和に生き続けることができる」という、神の人間への愛が溢れんばかりに込められていました。しかし人は、文字で記された律法を自分たちの都合の良いように解釈し、そこに込められた神の愛を抜き取ってしまいました。こうして律法は人間の所有物になってしまい、その途端、律法は愛し合うどころか、裁き合い、滅ぼし合うための道具になってしまったのです。今日の福音で「これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。」というイエスの言葉は、律法を自らの所有物にしている人間への強い警告です。「律法を完成するために来た」とは、律法に込められた神の深い愛を伝えること、その愛がこの世界に実現するためにこそイエスは来た、ということです。
 そのイエスが断言します。
 「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」
 「塩になりなさい」でも、「光になりなさい」でもありません。私たちはすでに塩であり、光なのです。16節の「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」という箇所の直訳は、「あなたがたの光が輝きなさい」です。イエスが期待しているのは、塩気も光もすでに与えられているのだから、すでに塩であり、光であるのだから、自ら塩気を無くしてしまったり、自ら光を覆い隠してはならないということです。
 私たちは時として、私に塩気など、光など無いのではないかと思うことがあります。また、他者の塩味を、光を消そうとしてしまうこともあります。しかし、それではかつて律法を骨抜きにし、神の愛から離れてしまった人間と同じです。なぜなら、すでに塩気を、光を与えてくださっている神の恵み、愛を自ら無きものにしてしまっているからです。そうではなく、イエスの断言は、神の愛を甘受せよ!ということです。私たち人間は愛を受け取ることが苦手です。しかし、私は塩だ、私は光だ。それで良いのです。
 今日の使徒書にある通り、私たちにとって、十字架につけられたキリストこそ栄光の主です。なぜなら十字架にこそ神の愛が示されたからです。クリスチャンとは、このイエスの栄光の光を反射する者のこと、つまり、十字架上で両手を広げるイエスの愛を全身にいただき、地の塩、世の光として生きるがクリスチャンなのです。

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