18:28 2018/10/15
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★太田信三 司祭による主日の福音 ★主日の福音(2026年2月22日) (大斎節第1主日、A年)「荒れ野にて」(マタイによる福音書4:1-11) アダムとイブは、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。これは、「食べると必ず死んでしまう」と神が言った実です。善悪の知識を得て神のようになりたい、そのような存在になりたいという願望が人間の奥底にはあります。意識しないまでも、気づかぬうちに惹かれてしまう、とも言えるかもしれません。こうして、神に背いたアダムにより、すべての人が死の定めを負うことになりました。しかし、神は死刑を執行することはありませんでした。アダムとイブを楽園から追放しつつも、その命を奪うことしなかったのです。いや、追放というよりもむしろ、着物を与え、アダムとイブを楽園から荒れ野へと「送り出した」とすら読むことができます。ここに、神の深い人間への憐れみと慈しみがあります。こうして人間には、荒れ野で神に立ち返って生きるチャンスが与えられました。 アダムによって、すべての人間が死に定められました。しかし、同じ一人の人間=イエスによって神はすべての人間に救いをもたらします。洗礼を受け、霊によって荒れ野へと導かれたイエスは、アダムとイブが追放されたのと同じ荒れ野において、アダムとイブの背きとはまったく逆に、悪魔の誘惑を受けながらも、神への従順にとどまりました。そして、このイエスに天使たちが従いました。これによりイエスは、楽園追放以来荒れ野でさまよう人間に対し、神に信頼して生きるなら、荒野であっても人は再び神と共に生きることができるということを、身をもって示してくださったのです。 イエスが荒れ野で受けた誘惑は、私たちの日常に溢れているものでした。このことは、私たちの日常は荒れ野なのだということを表しています。つまり、私たちは相変わらず、アダムとイブが追放された荒れ野にいるのです。しかし、アダムと同じ一人の人=イエスによって、私たちすべての人に、再び神とともに生きる道が開かれました。ここにアダムと私たちとの決定的な違いがあります。大斎節、私たちはあらためて、自分自身が荒れ野に生きていることを確認し、日々襲ってくる誘惑と向き合います。大斎節の最初の主日。その荒れ野にあっても、神への従順にとどまったイエスの姿を見つめ、私たち自身の日々の有り様を省みたいと思います。 ★主日の福音(2026年3月1日) (大斎節第2主日、A年) 「神がいる世界」を見る目(ヨハネによる福音書3:1−17) 今日の福音に登場するニコデモは、大変優秀な律法の教師で、この人が行けないなら、誰が天国に行けるのだろうかと言われるほど、皆から尊敬される人でした。しかし、彼は不安でした。自分は本当に神に認められるだろうか、天国に行けるだろうか。その不安に誘われ、ある夜、彼はイエスのもとを訪れます。昼ではなく夜に訪れたのは、他人の目を気にしたから。つまり高名なユダヤ教の教師である自分がイエスのもとを訪れたことがバレることを恐れたからでしょう。しかし、そうまでしてもイエスのもとを訪れたのは、彼がそれほどに真理を求めていたからです。こうして、イエスのもとを訪れたニコデモとイエスとのやり取りを通して、天の国の真実が明らかにされます。 けれども、彼はイエスの言っていることが分かりませんでした。どんなに知識があっても、尊敬されていても、イエスが言うとおり「新たに生まれ」なければ、イエスによって示される真理は分からないのです。同じ世界の同じ出来事を見ても、肉の世界に留まっている目で見るのと、霊による目で見るのとでは世界が異なって見えます。人の目を気にして夜に訪れたニコデモは、まだ肉に留まっていたのです。そのことが、彼が「しるし」にこだわった事に示されています。肉に留まるものは、確信を与えてくれる眼に見える「しるし」にこだわります。 霊による目とは、「神がいる世界」を見る目です。霊の目は、修行を積むことや善行を重ねることで得られるものではありません。水と聖霊によって洗礼を受け、神の子どもとしての新たな命をいただき、神とともにあるその命を生きるなかでこそ、「神がいる世界」への目は開かれます。たしかにこの世界に神がおられること、神の霊がこの世界に吹いていることを信じ、感じて生きること。それによってこそ、霊の目は開かれ、イエスが語ることの真実が分かります。そして霊の目によってこそ、私たちは今この時にも、神がいる世界に生きることができるし、この世の出来事を通して、神を知り、天の国の真実を知ることができます。 ニコデモは私たちの姿を代表しているように感じられます。もしも知識が、他者からの目が、この世の名誉が、私たちの霊の目が開かれイエスをまことに知ることを邪魔するのであれば、それらは何の価値もありません。今もここに吹いている霊の語りかけに耳を澄まし、神がいる世界への目が開かれますように。その目が開かれるなら、「神はご自分の独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という神の愛が「私」に注がれていることを、私たちは知ることができます。 ★主日の福音(履歴) B年(2023~2024年) → 2023年12月3日 → 2023年12月10日 → 2023年12月17日 → 2023年12月24日 → 2023年12月31日 → 2024年1月7日 → 2024年1月14日 → 2024年1月21日 → 2024年1月28日 → 2024年2月4日 → 2024年2月11日 → 2024年2月18日 → 2024年2月25日 → 2024年3月3日 → 2024年3月10日 → 2024年3月17日 → 2024年3月24日 → 2024年3月31日 → 2024年4月7日 → 2024年4月14日 → 2024年4月21日 → 2024年4月28日 → 2024年5月5日 → 2024年5月12日 → 2024年5月19日 → 2024年5月26日 → 2024年6月2日 → 2024年6月9日 → 2024年6月16日 → 2024年6月23日 → 2024年6月30日 → 2024年7月7日 → 2024年7月14日 → 2024年7月21日 → 2024年7月28日 → 2024年8月4日 → 2024年8月11日 → 2024年8月18日 → 2024年8月25日 → 2024年9月1日 → 2024年9月8日 → 2024年9月15日 → 2024年9月22日 → 2024年9月29日 → 2024年10月6日 → 2024年10月13日 → 2024年10月20日 → 2024年10月27日 → 2024年11月3日 → 2024年11月10日 → 2024年11月17日 → 2024年11月24日 C年(2024~2025年) → 2024年12月1日 → 2024年12月8日 → 2024年12月15日 → 2024年12月22日 → 2024年12月25日 → 2024年12月29日 → 2025年1月5日 → 2025年1月12日 → 2025年1月19日 → 2025年1月26日 → 2025年2月2日 → 2025年2月9日 → 2025年2月16日 → 2025年2月23日 → 2025年3月2日 → 2025年3月9日 → 2025年3月16日 → 2025年3月23日 → 2025年3月30日 → 2025年4月6日 → 2025年4月13日 → 2025年4月20日 → 2025年4月27日 → 2025年5月4日 → 2025年5月11日 → 2025年5月18日 → 2025年5月25日 → 2025年6月1日 → 2025年6月8日 → 2025年6月15日 → 2025年6月22日 → 2025年6月29日 → 2025年7月6日 → 2025年7月13日 → 2025年7月20日 → 2025年7月27日 → 2025年8月3日 → 2025年8月10日 → 2025年8月17日 → 2025年8月24日 → 2025年8月31日 → 2025年9月7日 → 2025年9月14日 → 2025年9月21日 → 2025年9月28日 → 2025年10月5日 → 2025年10月12日 → 2025年10月19日 → 2025年10月26日 → 2025年11月2日 → 2025年11月9日 → 2025年11月16日 → 2025年11月23日 A年(2025~2026年) → 2025年11月30日 → 2025年12月7日 → 2025年12月14日 → 2025年12月21日 → 2025年12月28日 → 2026年1月4日 → 2026年1月11日 → 2026年1月18日 → 2026年1月25日 → 2026年2月1日 → 2026年2月8日 → 2026年2月15日 → 2026年2月22日 → 2026年3月1日
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