主教メッセージ
2005年3月27日  復活日(A年)



主教 ステパノ 高地 敬

人は否定し、神は祝福する

 私たちには、イエスさまがよく分からない、自分に何をしてくださったか分からなくなるということが時々あります。十字架のことはなんとなく分かるのに、「復活」が分からなくなることもあります。また、イエスさまが生き返られたことは分かるけれども、そのことと自分とどんな関係があるのか、ちょっと言ってみろと言われても答えようがないと感じることもあります。
 イエスさまの道とは、自己犠牲の道だった。私たちの罪をつぐなうために死んでくださった。だから私たちはイエスさまにならって、他の人のために生きていきましょうと私たちは考えます。けれどもそんな時、私たちは、イエスさまの死は無残だったけれども、立派な死に方だったと心の中で思い描いていないでしょうか。ある意味でその通りなのですが、ただ、イエスさまの受難は、人の模範になるような立派な格好のいいものではありませんでした。「(人々がイエスさまのことを)侮辱した。ののしった。頭をたたき続けた」ことをしっかり思い描きながら受け止めることができればと思います。
 自己犠牲とは、いざとなったら少しでもしなくてはいけないことだと私たちは思いますが、イエスさまの道はそれに加えて、徹底的に人にばかにされる道でした。生きていることが否定される。「死んでしまえ、殺してしまえ」と言われるよりも先に、そして、実際に息を引き取られるよりも先に、「お前なんかどうしようもないやつだから」と侮辱された時に既に人格がすべて否定され殺されてしまっている。それこそがイエスさまの受難でありましたし、それが神さまのくださる唯一の不思議な救いの道でありました。この道を人は侮辱しますが、神さまは祝福され、イエスさまを復活させられたのではなかったでしょうか。
 人に侮辱される生き方をあえて選ぶことは、私たちにはありません。だれも選ぼうとは思わない道、自己犠牲という言葉で片付けられない生き方、そして、だれも真似できない道にあえて入って行かれた方こそが、私たちの支えですし、この方に出会うことこそが私たちの復活、新しい命でありました。
 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマの信徒への手紙6:8)