2013年3月31日  復活日               主教 ステパノ 高地 敬
 
このままでいたい私に

 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に出てくる第一の関門は勇気が試されるものでしたが、「魔法の鏡の門」という第二の関門は、第一のものとは比べ物にならないくらい厳しい関門で、本当の自分の姿を見せられるというものでした。自分のことは自分が一番よく分かっているのですから、「本当の自分の姿」を見せられても、なぜそれが関門になるのでしょうか。
 登場人物が説明していました。「大まちがいじゃよ、あんた!自分は非のうちどころがないと思いこんでいた、まさにそういうものが、鏡の中に怪物が現れ、自分に向かって歯をむきだすのを

見て、悲鳴を上げて逃げてきたのを、わしは何度も経験しておる。ふたたび帰途につける状態になるまで、わしらが何週間も介抱してやらにゃあならんのも多かった。」
 自分のことをやさしい人間だと思っている人が、本当はとても冷たかったり、自分はどんなことがあっても人との関係を大切にする人間だと思っている人が、実は簡単に人を裏切る卑怯者だったり、怪物のような自分の姿を見せられて、たいていの者は逃げ出してしまうというのです。
 私たちはこの第二の関門のように、自分の本当の姿を一気に見るなどということはほとんどありませんが、知らなかった別の面を少しずつかいま見ることがあります。そのような時、そんなのは自分じゃないと否定することが多いように思います。また、自分の姿だと認めることができたとしても、とても怖い思いをしますし、自己嫌悪に陥ることにもなります。
 知らなかった自分に出会う。うれしいことだけではありません。こんな面があったのかという驚きや、自分にはこんな悲しい、寂しい部分があったのか。それを自分にも隠して、ひょっとすると無理に明るく振舞って今まで来てしまったのではないかと思わされることもあります。でも気がついてみれば、人に隠すようなものでは決してないし、ありのままの自分でいる方が、作らないでいい分、ずいぶん楽であるはずです。
 イエス様を置いて逃げてしまった弟子たちの体験は、強烈なものであったに違いありません。「師と仰ぎ、また、その人柄に全くの信頼を寄せていたはずなのに、いざという時に逃げてしまった。自分はなんという卑怯者なんだろう。」イエス様に従ったこの何年間かの意味が一挙になくなってしまい、自分の全く別の姿を知ってとてもみじめに感じます。イエス様に会わせる顔がないし、死んでしまわれたから、もちろん会うこともできない。
 このままでいたい私の中に、私が知らない別の面がいくつもあって、それをかいま見てしまう時はとても怖いかも知れませんが、そのような姿が確かに私の中にあるのだし、それを認められない私も確かにここにいます。
 十字架は私たちの中のさまざまな姿を見せてくれる鏡です。弟子たちのようにこの鏡から繰り返し逃げ出す私たちであるかも知れませんが、イエス様に会わせる顔がないと沈み込んでいた弟子たちに、ご復活の主が出会って声をかけられたのと同じく、ご復活の主が私たちを招いてくださいます。
このままでいたい私たち、自分の中のいろいろな面を認めることがとても難しい私たちに、神様は十字架という鏡を通して問いかけ、また、受け入れようとしてくださっておりました。こんなにも赦され受け留められている私たちが、他の人びとを、その隠れた面も含めて受け留めることへ少しでも進んでいくことができればと願います。