2015年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
とても暗い、けれど、

 イラン映画の『太陽は、僕の瞳』の主人公ムハンマドは、都会の盲学校の生徒で、手で触れ音を聞いて自然と対話する少年です。夏休みになるので父親が迎えに来て、長いことバスに揺られ、次に馬に乗って、ようやく田舎の家に帰ります。家には優しいおばあちゃんと妹がいて楽しく過ごすのですが、父親は再婚するために彼を盲目の大工さんのところに奉公に出します。ムハンマドは大工さんに、「学校で先生は、『神様は誰にも見えない。でも君たちは神様を手で見ることができる』と言った」と言いますと、大工さんは一言、「先生は正しい」と答えます。

 父親は再婚の話がだめになって、ムハンマドを迎えに行き、馬に乗せて森を歩いて帰ります。橋を渡るところで馬が急流に驚いて暴れ、ムハンマドは川に投げ出され、流されていきます。父親は息子の姿を目で追い、一瞬迷いますが、意を決して川岸を必死で追いかけます。次のシーン。海辺の広い広い河口が写ります。ずっと向こうの砂の上でムハンマドを抱いて座り込んだ父親の後ろからカメラがゆっくり近づいていきます。父親の背中に回ったムハンマドの手が、ほのかに光を放っているのが写り、映画は静かに終わっておりました。

 父親にとって日々の生活や人生はとてもつらいものだったのでしょう。何とかして変えようとあれこれ考えるけれども、やっぱりどうにも変えようがない。ムハンマドも、村の学校に行きたいのに、家族と離れて都会の学校に行かなければなりません。何かの事情で奉公にもやられてしまいます。とても複雑な思いを抱き続け、でも生きていかなければならない二人。
 私たちの人生でも、いろんな場面でどんなに頑張ってもどんなに考えても状況を変えることができないことがあります。途方に暮れてしゃがみこみ、叫びだしたくなるようなこともあるでしょう。そんな時でも「神様は誰にも見えない。でも見ることができる」と言えるのでしょうか。
 映画の最後のシーンでムハンマドが生きているのか死んでいるのか、全く分かりません。でも、こんな悲惨な中でも父親に抱かれた彼の手が光を放っている。彼にとって一番素晴らしいことがこの時に起こったのだと証言されているようです。彼は、手で触って体で感じ、そして、確かに神様を見ることができたのだと。
 手で神様を見る、あるいはどこかで神様に出会う。自分にはめったにないことと思えるのですが、実際には人生の中で無数にあることなのかも知れません。たとえ周りに頼りにできる人がだれもいなくても、たとえ状況が最悪であっても、私たちはどこかで神様と出会って、何とか今日一日を終わる。そして、何とか次の日も歩み続ける。ただ私たちはそれに気が付いていないだけなのでしょう。
 クリスマス。2千年も前にどこかの国で起こったことです。目で見たことも手で触れたこともありませんし、その時生まれた赤ちゃんと神様との関係など、想像もできません。でも、クリスマスは今も私たち自身に起こり続けていないでしょうか。何も変えようがないような袋小路の中にいて出るに出られない時、周りが真っ暗で何の光も見通しもない時、それでも、そしてそんな時だからこそ、急流に飲み込まれている私たちを必死で追いかけて来た方がありました。そして、私たちはその腕の中でほんの少し休んで、次の日をしんどくてもまた生きていく。これが今も私たちに起こり続けているクリスマスでありました。