らくだの眼鏡                 主教 ステパノ 高地 敬


 礼拝前に式服を着ていて、老眼鏡をシャツの胸ポケットに入れたままなのに気が付いたことが何度もあります。早めに気がつけばいいのですが、全部着てからですと、眼鏡を取るためだけに着直すことになります。礼拝が始まってから気がついた時は大変でした。日課の朗読を聞き、聖歌を歌いながら、手をもぞもぞ動かして眼鏡を引っ張り出そうとするのですが、あせっているので眼鏡がアミスの紐に引っかかり、ピン・マイクのコードに引っかかります。冷や汗をいっぱいかいてやっと取り出しました。
 決まった式文の言葉は眼鏡なしで少々ぼやけていてもなんとか読めるのですが、その日の日課や詩編はそういうわけにいきません。と、ここまで書いていて8月に入ってまたやってしまいました。特祷がどうしても読めず、他の方にそこだけお願いしました。自分の不注意には本当にあきれます。
 せっかく便利なものを持っていても、いざというときに見当たらなかったり、あっても使えないことが誰でもあるのだと思います。かと言って、初めからやり直すこともしたくないし、現実的にそれは難しい。数少ない能力なのに、それも肝心の時には役に立たない。
 神の力をあえて使わずに十字架上で息絶えられたイエス様は、痛い思いを何度しても繰り返し失敗し、与えられた能力を十分に使えない私たちをどのように見ておられるでしょうか。「だめな者たちだ。持っている力を最大限に活かしなさい。そのために細心の注意を払って失敗がないように気をつけなさい」と注意してくださるのでしょうか。それとも、「あんまり後悔ばかりしていても仕方ないよ。私が支えるから、次は何とかしよう」と言ってくださるのでしょうか。

(教区主教)