らくだはついて行くだけ           主教 ステパノ 高地 敬

 

 前に安いホテルに泊まった時、朝食はセルフサービスで、食べ終わった人が次々とトレイを持って、どこに片付けるのか探していました。係りの人がいちいち「そこの左にお願いします」と言っていました。でも、片付ける場所はどう見ても左ではなく右側です。みんな一度は左を見るのですが、すぐに右側の片付け場所に気がついていました。一様に不思議そうな顔をして、でも、気にしないことにしようという顔つきをしていました。
 うちの相方は、車の後ろの座席から、「そこ、あっち」と指さして教えてくれることがありますが、運転している私からはその指が見えません。そこがどこで、あっちがどっちなのか、長年の相方である私ですが、残念ながら感覚が鈍くて分かってあげられないのです。
 右と言うつもりが左と言っている。見えていると思って指さしている。思っていることと言葉や行動が一致しなくて、うまく伝わらないことがよくあるのだと思います。やさしく言ったつもりがかなりきつく響いていたり、しっかり伝えたのに相手に全く届いていなくて、がっかりすることもあります。道順だけでなく、人生の歩みの方向についても、思いと言動を一致させる努力を惜しんで、ずいぶん無責任なことを言っているのではないかと反省させられます。
 イエス様は、方角だけ指し示すのではなく、目的地の近くまで案内して一緒に行ってくださるようです。また、「あっち」とか「こっち」とか言わずに、「私が道だ」と言われます。私たちはイエス様という道の上を踏んで行きます。踏みつけさせていただきます。ですから、言葉による誤解はありませんし、イエス様を見つめている限り道をはずれることもないでしょう。

(教区主教)