長靴をはいたらくだ           主教 ステパノ 高地 敬

 

 昨年末から年初めにかけて各地で大雪でしたが、京都でも大みそかに雪が一日降り続いて、京都としては大雪になりました。奥から長靴を出してきて教区事務所との間のほんの10mを行き来したのですが、なんだか右足が冷たいので見てみると、長靴のどこかに穴があいていて浸水していました。そのことを報告すると相方は、「茨の道、歩いたしか?」とやさしく聞いてくれましたが、そんなとげとげの道を長靴で歩いた覚えがありません。
 穴のあいた長靴は全く役に立たないので、惜しみながらも捨てました。普段はそんなに要らないもので、今こそ出番だというときに役に立たないというのは本当にがっかりすることです。では自分は肝心の時に頼れる人かと言うと、全くそうではありません。いざという時に役に立たないというのは、まさに私たちの、いえ、ごめんなさい、私の人生そのものだと感じます。
 イエス様の弟子たちは、各地で華々しい活動が続き、自分たちが時代の先端を行く勇ましい活動をしていると感じていたのだと思います。けれども、さあこれからという時にイエス様は捕まってしまいます。肝心な時に役に立たない。惜しまれもせず捨てられた。
 その日弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ出しました。役に立たなかったのは、イエス様というより自分たちだったことを彼らは知ります。ただ、イエス様の十字架の上の姿は、「まず役に立とうとしなくてもいいんだよ。私を見なさい」との呼びかけだったことに、あとで彼らは気がつきます。それでようやく自分を取り戻し、イエス様が自分たちの至らなさをみんな負ってくださったのだと思い至り、神様のお恵みに感謝し、再び立ち上がって歩き始めました。

(教区主教)