らくだ・まっさら       主教 ステパノ 高地 敬

  

 うちで昼食の時に相方のうどんに親切で七味をかけるつもりがガラム・マサラ(カレーをもっと辛くする粉)をかけてしまいました。「それ、ぼく食べるし」と言ったのですが、相方はどうしてもどんぶりを離さず、「私が食べる。けど、ガラム・マサラのおうどん食べさせたて一生言うし。」(まいったなぁ、けど、一生一緒にいてくれるていうことか。しかし、なんかうまそうに食べてるなぁ。カレーうどん好きなんやなぁ。)
 親切のつもりでしたことが、かえってあだになる経験はだれにもあると思います。ある会で隣に座った他教派の方が聖歌集を持っておられなかったので私のをお見せしようとしたら、「いいんです、いいんです。聞いているだけでいいんです」と、とても強くお断りになられました。私のことがそんなに嫌なのかと思ったほどでした。本当はどんな気持ちだったのか聞ければよかったのですが。本当に遠慮深いのか、人の気遣いを、それがとても小さいものでも素直に受け取れない何かが心の中にあるのか。私もそんなに素直ではありませんので、その方のお気持ちはなんとなく分かるような気がします。
 イエス様は人に気を遣われる時、それを避けるようなことはなかったようです。ナルドの香油がそうでしたし、エルサレムに入られた時に人々が服を道に敷いたのも、「何もそこまでしなくても」と遠慮されることはありませんでした。何かしてくれる人の気持ちを受け止め、何でもありがたく感謝していただく。大事なことだと思います。ですからガラム・マサラのきつねうどんをおいしそうに食べるのは、親切をした人の気持ちを受け取り、失敗した者に配慮をしていると考えなければ、、。いやっ、やっぱりカレーうどんが好きなんでしょう。

(教区主教)