らくだでしたっけ       主教 ステパノ 高地 敬

  

 物を取りに別の部屋に行ったのに、何を持ってくるのか忘れたということは誰にでもあることのようです。「ええこと思いついた」とか、「ええ話やなあ」とか思う時、私は、こんな大事なこと忘れるはずがないと思うのですが、一、二分もするとすっかり忘れていて、大事なことに気がついたことさえ忘れてしまいます。大事なことがあったと後で何となく思い出して、何だったか懸命に思い出そうとするのですが、無駄な努力だったりします。ちゃんとメモを取るように心がけてはいるのですが、お風呂に入っている時など手が離せないときは、せっかくのものが大抵無駄になります。メモすることができても、後で何のメモだったか分からない書き方をしてしまうこともあります。
 とても皮肉なことですが、教会の大きな課題の一つに記憶するということがあります。
 「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。」(出エジプト記13:9)
 必ず忘れるのだから、忘れないようにするにはどうすればいいのか。神様の言葉を書いたカードを身に着け、しかも、しばしばそれを口に出して言う。これだけ徹底しても忘れることは忘れる。また、言葉は覚えていても心で受け止めていなければ、忘れたのと同じです。
 教会も2000年来、忘れることと闘ってきました。礼拝は感謝・賛美に加えて記憶の意味もありました。イエス様のお恵みを形で表し、聖書のみ言葉を繰り返し聞く。それでも私たち人間こそが神様を忘れるのに、神様に向かって、「私たちを忘れないでください」とお願いする。それほどいい加減な私たちでも神様が決してお忘れにならないことだけでも忘れることがないようにと願います。

(教区主教)