らくだにボタン       主教 ステパノ 高地 敬

 

 電車の話が多くて申し訳ありません。先日電車に乗っていて、隣に座っていた男性が駅で下りて行きました。そのシートに何か光るものがあるので見ると、直径7ミリほどの座金でした。ボルトをナットで締める時に使う薄い金属です。空いたその席に座ろうとして一人の女性が来ましたが、座金があるのを見て向こうへ行ってしまいました。次に来たのも女性でしたが、座金を見て、もう一つ向こうに空いた席に座って、座金の席には荷物を置きました。その人が下りて、次に来た人は、またまた女性でしたが、座金の席しか空いていなかったのでそこに座って、座金を後ろの方にやったようでした。
 何か好ましくないものについて、それをどのように感じるか、また、どうするかは人によってまちまちです。絶対に嫌だ、少し嫌だ、触るくらい平気だ。向こうに行ってしまう、何とか利用する、一緒に居ることにする。
 良きサマリア人のたとえでは、一人目が祭司で、道の向こう側を行きました。二人目も男性でレビ人でしたが、同じく道の向こう側を行ってしまいました。倒れた人に関わりたくなかったし、関われない事情もあったようです。三人目がサマリヤ人の男性でしたが、倒れた人に懸命に関わりました。
 イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。できればそのようにしたいのですが、うまくいかないことが多いです。おまけに、良き隣人になるどころか、倒れているのが自分だったりして、そんな時は、イエス様ご自身が良きサマリア人として自分のところに来てくださって、一緒に居てくださるでしょうか。
 あとで座金をよく見ると、裏返しになった金属のボタンでした。老眼が進んだことを自覚した出来事でありました。 

(教区主教)