鏡に映ったらくだ      主教 ステパノ 高地 敬

 

 先日電車に乗って、文庫本を出して、老眼鏡を出して、さぁ読もうと思ったら、なぜか目のピントがどうしても合いません。字がとても小さな本だし、天気が悪いのに省エネで車内の電灯が消えているからだと考えて少しだけ読みましたが、しんどいのでやめて眠ってしまいました。それにしても、老眼が急に進むなんてことがあるでしょうか。
 次の日、「昨日のは何だったんだろう」とうちで老眼鏡を出してかけてみましたが、やっぱり何だか変で、他のメガネをかけましたら良く見えるので、これは目の問題ではなく、メガネの問題だと分かりました。そして初めのメガネをよく見ましたら、安物のせいか、片方のレンズがありませんでした。幸い、レンズは服のポケットにまだあったので、はめて元通りになりました。でも、片方のレンズがはまっていないメガネをかけているおじさんが、電車の中で本が読めなくて首をひねっている図を思い浮かべ、恥ずかしいやら悲しいやら。
 レンズがないことにさえ気が付かない。自分のことがまるで分っていない。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」言われなくても分かっていると言いたいところですが、自分のことはなかなか気が付きません。
 イエス様はご自分のことをよく分かっておられましたので、ご自分の道もはっきりしていて、その道を迷うことなく進まれました。それに対して私たちは、自分にとって大切なことに気が付いていないことにさえ気が付いていないことがたくさんあるのだと思います。「今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」年おうごとに見えにくくなっても、希望を持ち続けたいと思います。

(教区主教)