らくだは笑わない      主教 ステパノ 高地 敬

 

 教育テレビのある番組の中で「○○くじ」のコーナーというのがあって、テレビを見ている人が画面を携帯などのカメラで撮って、写ったくじを今週のお守りにします。「くじ」とか「お守り」と言うと教会的ではないのですが、今週の標語くらいにしてもいいのではないかと思います。画面が変わるのがとても速いのでなかなかうまく撮れないのですが、たまに撮ってみると、「忘れた頃に大吉来たる」とか、「スカイツリー級大吉」とかいうのがあって、ほんのひと時ですが、何となくうれしくなります。
 先日は、「ニコ吉、にこにこしていると福来たる」というのが写って、これはいいことだと思って朝からむりに笑顔を作っていたら、相方に気味悪がられました。いつもは無表情か不満だらけの顔をしているのでしょう。自分が笑顔でいればいいことがある。人が近くに来てくれるし、自分も相手のいいところが見られる。
 聖書には、優しいはずのイエス様が笑ったとか、にこにこしておられたとかいう話は全く出てきませんが、イエス様が笑顔だったことはたくさんあったでしょう。ただ、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:21)と、人が笑顔になることの方が大事だったのかも知れません。
 『星の王子さま』のクライマックスのところにこんな言葉があります。「王子さまのあの笑い声をきくことは、砂漠の中で泉の水を見つけるのと同じだったからです。」特に機嫌の良くない人は別として、笑顔を見たり適度な笑い声を聞くのはだれにとっても本当にうれしいことです。
 ですからこれからしばらくはイエス様の笑顔を思い描いてみたいと思います。そのためには自分も笑顔でなければなりません。えっ、やっぱり無理でしょうか。

(教区主教)