らくだがふたつ      主教 ステパノ 高地 敬

 

 相方が、「御所の一般公開やて。行かへんか?」と言うので、「ちょっと行けへんわ。小学生の時、遠足で行ったけど、別にまあこんなもんかというくらいのことやったけど」と言うと、「もう小学生ではないんやから、違う感じやと思うけど。まあ一人で行ってこう」と、次の日に行ったようです。
 「思てたより小さかったわ。そやけど、あんな薄暗いとこで、どやって暮らしたはったんやろ。それに寒かったやろなあ。戸なんかあるんやろか。」「戸は全部閉まるようになってるやろ。とにかく大きいし、奥行ったらどんどん暗なるで。ほんで冬はたくさん着込んで、一人用の火鉢なんかたくさんあって、ぜいたくしてたんと違うか?」そう言って思い出しました。
 昨年の夏に東京に行った時にある人が、「京都は暑いでしょう」と言われるので、「暑いです。けど冬も寒いし。『枕草子』に『家のつくりやうは冬をむねとすべし』って、冬を基準にしたんですね」と言って、あとで考えて、なんかおかしい。そうだ、家を造る時には夏を基準にするんだった、と一人で赤面しておりました。おまけに、『枕草子』ではなくて、『徒然草』でした。こんな恥ずかしいことを気が付かない内にたくさん言っているのではないかと思い、もっと恥ずかしくなりました。
 ただ、『徒然草』は建築について「夏をむねとすべし」と言いますが、「天井の高きは、冬寒く、灯暗し」と続いていて、冬も基準にしているようなのです。要するに夏は暑いし冬は寒い。ブツブツ言っている姿が目に浮かびます。基準が一つでは間に合わない。でもそうすると矛盾が起こる。
 教会にとっても「聖書と伝統」、「信仰と理性」と、元にするものがいろいろあります。矛盾はどこにも起きていませんよね。えっ、なに?

(教区主教)