2004年2月22日  大斎節前主日 (C年)



司祭 ヨハネ 井田 泉

栄光に輝くイエス

 「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」(ルカによる福音書9:28)
 三人の弟子たちは、山の上で祈っておられるイエスを見ました。イエスの顔の様子が変わり、その服が真っ白に輝きました。そこに、遠い昔の指導者モーセとエリヤが栄光に包まれて現れました。
やがてイエスはエルサレムで最期を遂げる。しかしその最期から新しいことが始まる――モーセとエリヤはそのようなことを話していたのですが、弟子たちにはそれが聞こえたでしょうか。
 三人は、イエスの栄光を目撃しました(新共同訳聖書では「見えた」となっていますが、ギリシア語原典は能動形で「見た」と書いてあります)。
 「栄光」とは何でしょうか。それは、神の恵みと力の輝きです。三人の弟子たちは、イエスの顔と姿に神の存在とその輝きを見ました。このイエスをとおして、神は恵みのわざ、救いの働きを進めて行かれる。それが目の前に示されました。
 「栄光」という日本語は「輝かしいほまれ」「名誉」をあらわす言葉です。この言葉だけを聞くと、高い地位、圧倒的な力、人々の称賛をイメージします。勝利者イエスの神々しさを思わされます。
 しかしそのイエスの「栄光」は、苦難をとおして現されるものでした。イエスは地位ある人々から糾弾され、恥辱を受け、無力な姿をさらし、群衆から罵倒されて、十字架に死に、葬り去られました。人の考える「栄光」とは正反対でした。しかし聖書が語るのは、この苦難をとおしてこそ、神の栄光が現れた、ということです。イエスの負われた恥と苦しみの中に、神の恵みの光が輝いていた。この十字架の死とそれに至る苦難をとおして、人を救おうとされる神のわざは実現したのです。イエスの「栄光」が単に「高い地位、圧倒的な力、人々の称賛」であれば、苦しみある人がどうして救われるでしょうか。救われがたい人の現実は、苦しみを受けられたイエスが共に負われるのです。
 しかしやがて恥辱の中に光が輝き、無力の中に力が現れます。悲しみは喜びに変えられます。十字架の死はそれで終わらず、復活に至るからです。山の上で弟子たちが見たイエスの輝きは、復活のイエスの輝きにつながるものでした。
 苦難を避け、この世の栄光を求めるなら、イエスの栄光を見ることはできません。しかしイエスと共に苦しみを受け、悲しみを経験するとき、神の恵みの輝きであるイエスの栄光は私たちを包むでしょう。