2004年2月29日  大斎節第1主日 (C年)



司祭 セオドラ 池本則子

神様と悪魔に出会う荒れ野

 イエス様は神の子としての働きを始められる前に、"霊"によって荒れ野の中を引き回され、40日間悪魔から誘惑を受けらました。悪魔はイエス様が神の子であることを承知した上で、人間の弱いところをついて誘惑しました。しかも、悪魔も聖書の言葉をよく知っていて、聖書の言葉を用いて誘惑してきます。しかし、イエス様は同じく聖書の言葉を用いて悪魔の誘惑を退けられたのです。
 「荒れ野」という場所は、聖書の中では「神様と出会う場所」でもあり、また「悪魔がいる場所」でもあります。そして、私たち一人一人の心の中も「荒れ野」です。私たちは心の中で神様と出会い、また悪魔とも出会います。そして時として神様の声より悪魔の誘惑の声の方が快く、魅力あるものに聞こえてきます。地位、名誉、賞賛、優雅で楽な生活など、人間の欲望を満たす悪魔の甘いささやきがあります。弱い人間ですからそれに負けてしまいそうです。一方神様の声はどうでしょうか。「己を棄て十字架を負いなさい」という厳しい声が聞こえてきます。そして、それが神様と共に生きる平和な神の国なのです。私たちはどちらの声に聞き従うのでしょうか。自分中心の思いで心地よい道を選ぶか、平和につながる「己を棄て十字架を負う」という厳しい道を選ぶか、私たちはいつも神様から試みられています。
 さらに、この世界もまさに荒れ野の中にあります。今、この世界は悪魔が大きな顔をして支配しようとしているように思えます。この世界を滅ぼそうとしているのは人間です。とどめを知らない科学の進歩、環境破壊、ますます広がっていく貧富の格差、絶え間のない紛争、殺し合い、この上戦争が正当化されたら、近い将来、人間の欲望・身勝手さによって地球は滅びてしまうかもしれません。それはまさに悪魔の望むところです。しかし、この地球という荒れ野を平和な神の国にするためには、「己を棄て十字架を背負って」神様中心の、神様に従い神様に仕える道を選ばなければなりません。イエス様が神の子としての働きをするため悪魔を退けられたように、私たちも神の平和を願うなら、悪魔の誘惑を退けなければなりません。人間の心をよく知っている悪魔の誘惑は魅力あるものかもしれませんが、私たちは神様の声と悪魔の声を注意深く聞き分け、神様の声に聞く力を養っていく必要があるのではないでしょうか。