2004年3月7日  大斎節第2主日 (C年)



司祭 ヨハネ 石塚秀司

「大切なのは、新しく創造されることです」

 よく「どうせ人間は死ぬ。死んでしまえば終わりだよ」という人がいますが、もしそのように「死」=「すべての終わり」と理解するならば、今生きていること努力していることも、何もかもがすべて終わりに向かっているということで、こんなに空しいことはありません。例えば、受験生がもし不合格がはっきりしているとすれば、誰も努力なんかするはずがありません。合格の可能性や新たな生活、将来への希望があるからこそ受験勉強に励むわけです。同じように、私たちの人生においても、この世の死を超えた確かな希望や生きる意味を見出せてこそ、今を充実感を持って生きることができるでありましょう。死はすべての終わりと本気で考えている人は、日々空しさの中にあって、やけくそになったり、ただがむしゃらに生きているだけだったり、今の自分の欲求をただ満足させるだけの日々で終わってしまうのではないでしょうか。
 さて、きょうの福音書は、主イエスが十字架の死を目前にして、逃避するのではなく、その死を受け止め、その死に向かって歩まれるお姿が述べられている場面です。主イエスが迎えようとしている死は、病による死ではありません。事故死でもありません。それは迫害による死であり、私ども人間の妬みや恨みを抱く罪がもたらす死でした。「ヘロデがあなたを殺そうとしています」。この陰謀が伝えられた時主はこう言われました。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を歩まねばならない」(32・33節)。主イエスはここで、やがて迫って来る十字架の死を知りながら、しかし、たとえそれが間近であろうとも、神様から与えられた時、神様から与えられた使命と信仰の道を歩み続けられることを宣言しておられます。
 主イエスは、この世の死、肉体の死がすべての終わりだとは言っておられません。むしろ、この世の生も死も創造主である神様のみ手の中にあり、この世の死を超えた神様の命の存在を信じ、本当に立ち帰るべきところを知っておられ、このことを人々に伝えようとされました。そして、ご自身、父なる神様の愛の命に生かされる復活への希望と確信があったからこそ、十字架の死を受け止め、与えられた信仰の道を歩み続けることができたのではないでしょうか。
 パウロも、フィリピの信徒への手紙3章18節以下で、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と述べた上で、「わたしたちの本国は天にあります」と言って、主イエスに学んだ信仰の思いを表現しています。
 私たちの住むこの世界においても、自分の腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えないことから、パウロが「滅び」という言葉で表現しようとしている悲惨な出来事がどれだけ起こっていることでしょうか。この世界を新たに創造してくれるのは、うわべだけの政治的経済的、あるいは社会的な改革ではないと思います。そこに生きる一人一人が新しくされることです。自分のことこの世のことしか考えない生き方から神様の愛の命に生かされる生き方へと変えられていくことです。そして、主イエスの十字架の死とご復活は、その恵みの事実、神様の新たな創造のみ業が、信仰の道にあることを示してくださっています。そして私たちも、今こそ、この信仰による新しい創造の恵みに生かされる一人となることです。「大切なのは、新しく創造されることです」(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章15節)。