2004年3月14日  大斎節第3主日 (C年)



司祭 サムエル 門脇光禅

「ご主人様、今年もこのままにしておいてください」【ルカによる福音書13:1−9】

 父と子と聖霊のみ名によって アーメン
 本日は大斎節第3主日の福音書から学びたいと思います。
 この箇所は大きくふたつの話しで構成されていますがルカによる福音書特有のひびきというか「くいあらためへのいざない」によって全体の統一がみられます。前半部は「くいあらためがないところには滅びしかない」ととらえられる強い警告で終わってしまっています。ところが、そしてという言葉で始まる「実のならないいちじくの木のたとえ」後半部のイエスさまのたとえ話はわたしたちにとってわかりやすく福音となって心豊かに伝わってくるのです。ぶどう園やいちじくの木はイスラエルを象徴するもので旧約聖書に登場してくる預言者にもよく使われています。(参照 ホセア書9:10、エレミヤ書8:13、イザヤ書5:1〜7等)当時ぶどう園にいちじくの木やいばらの木を植えることはめずらしいことではなかったみたいです。ところがこのご主人は特にいちじくの実がなるのがとっても楽しみだったようです。期待というものはそれが大きければ大きいほど失望のときのショックは大変なものです。3年も待ったのにいっこうに実がならないのでついに「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と園丁にどなりつけました。イスラエルに対する神さまの怒りそして私たちへの怒りです。たとえばもし私たちが命に関わる病気を発見したら仕事だの用事があるのと先送りしないで即病院に行き、必要なら緊急手術でも受けるでしょう。しかし現実は魂が滅びそうなっているにも関わらず教会に通い祈り熱心にみ言葉に聴いているでしょうか。本日の福音書の旧約聖書の預言者たちと違うのはこの園丁の存在です。園丁は「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを堀って、肥やしをやってみます。そうすれば来年実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と苦しい弁解をしています。この園丁こそ実はイエスさまなのです。私たちが少しも悔い改めず神さまのみ心を痛めてばかりそれなのにガリラヤ人やシロアムの塔の下敷きになって滅ぼされないのはなぜでしょう。それは3年ばかりでなく何年も何年もこの園丁のように「もうちょっと待ってください。あと1年もう1年まってください」ととりなしてくださるからなのです。大斎節も(レント)いよいよ中盤です。教会最大の祝日である復活日を迎える準備の期間として大切に送りたいものです。