2004年3月21日  大斎節第4主日 (C年)


司祭 パウロ 北山和民

憎しみの連環を断ち切るために、「神の大いなる招き」
【ルカ15:11−32(待っている父のたとえ)】

 ルカが記す三連続のたとえ話、一つ目の話は百分の一を失う羊飼い、次に十分の一を失う女、そして二分の一を失う父親の話。いずれも「失ったものを見出す喜び」を主題とした「神について」の話であって、本主日の三つ目の話も「父、すなわち神」の話であって「放蕩息子」の話ではない。
 大斎節にこのたとえを聞き、平和への悔い改めについて新しい気づきを持ちたい。
 何よりもこの見事な話の中に聞き入り、巻き込まれなければならない。
 「自分はこの話のどの人物だろうか」と思い巡らせる余裕のある人はまだまだイエス様に「近寄って」いないし、この話に「聞き入って」いるとは言えない。「徴税人や罪人が、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた(15:1)」ときの話なのだから。しかし不思議なことに、一連のたとえ話を始める動機は、彼らが近寄ってきたからではなく、彼らに対して不平を言うファリサイや学者たちのゆえである。この秘密は何か?。イエス様がこの「二人の息子を持つ父親の話」を語る場とは、罪人が歓迎される場のことであり、同時に不快感をもつ学者が明確に峻別される場なのである。 だから「見失った羊」と「なくした銀貨」の話には出てこない「喜ぶ神に不快感を持つ者」すなわち「兄息子」がこの話には特徴的に記される。ここから、私たちの教会は本当に罪人が歓迎される場になっているかが神様から問われている。しかし、もっと大切なことは、帰ってきた弟と、嫉妬する兄も二人共を愛する父をここに見ることである。「悔い改めていない」兄を「参加したくない祝宴(礼拝)」に招き入れる父の喜びと熱情に圧倒されることである。
 「悔い改め、そして罪のゆるしによる救い」とは徹底的に神の側からの招きのことであって、そのイメージはこの福音書では明らかに聖餐式である。その礼拝には、本当に帰る場所はここしかない道徳性の低い「弟息子」もおれば、分かったように悔い改めを語る先生もおれば、「あの人とは平和の挨拶は絶対しない」と参加を渋っていた「兄息子」もそのままで座っている。共同体に責任ある牧師や長老は想像さえ耐えられない。ここに私たちの「悔い改め(パラダイムシフト)」が明らかになるのである。神の招きによる共同体の姿であり、人の知恵では到達できない平和のパラダイムである。憎しみの連環を断ち切れる平和とはこれである。私は、特に今月マドリードで起きた同時多発テロを見るにつけ、今わたしたちの多元化世界(国々の指導者たち)にはこの「二人しかいない息子を二人とも取り戻す父親の物語」が最も必要な物語だと思っている。