2004年3月28日  大斎節第5主日 (C年)


司祭 バルナバ 小林 聡

「痛みを知る隅の親石(おやいし)は砕かれない」【ルカ20:9−19】

 イエスの民に対するたとえが語られる。
 ぶどう園の主人が自分のぶどう園の実りの取り分をおさめさせるために、三度しもべを送ったが、三人とも農夫たちに追い返され、段々と痛めつけられるようになってきた。主人はついに自分の愛する息子を送ることにする。だが、最悪の結果となった。農夫たちはこの息子をぶどう園の外で殺し財産を自分たちのものにしようとした。主人の意思を伝えようとした者たちはことごとく受け入れられなかった。それは律法学者や大祭司たちがイエスを受け入れなかったことと重なり合う。神の思いを伝える者たちはたとえにあるように、長く迫害にあってきた。自分たちのものではない物を自分たちの物にしようとした者たちによって。農夫たちは所有することにとらわれてしまっていた。
 さて、イエスは民につぎの詩編を語る。
    「家を建てる者の捨てた石、
    これが隅の親石となった」
 続けて「この石の上におちる者はみじんにくだけ、この石がだれかの上におちれば、その人を完全に押しつぶすのだ」。
 先日、信仰に純粋な人に出会った。その純粋さ、神さまの方に体全体が向かっている真っ直ぐさにこの親石を感じた。神への方向からはずれている人がその人に接すると砕け散りそうな、それほどの純粋さを感じた。たしかにたとえの中の遣わされたしもべたちは追い返された。主人の愛する息子は無残にも殺されてしまった。しかし、主人の思いを伝える純粋さゆえに、迫害した農夫たちはみじんにくだけ、押しつぶされるほどの不安を感じはしなかっただろうか。
 神の意志を伝える者は、神に向かう純粋さを生きる者。農夫と分け前について相談したり、取引をしたりしない。神の意志を生き、伝える。神の意志が体全体に充満していれば、自ら押しつぶされることもくだかれることもない。イエスは民にこのたとえを語られた。神の意志を生きている民に語られた。もし、あなたがたが神の意志を伝えているなら、もしあなた方の内に神の思いが充満しているなら、恐れることは無い。親石のごとくそのままの生き様を続けなさいと。イエスの言葉は神の思いを生きている者には励ましの言葉であり、神の思いをねじ曲げようとする者には裁きの言葉となる。
 私がなぜある人に親石を感じたのだろうか。それは不思議としかいいようがない。しかしその親石は純粋さゆえに物事を切り開いていく力を備えていた。隅に追いやられてきた人々の感性や痛み、喜びや悲しみが信仰を通してその人を研ぎ澄ましたかのように。親石は捨てられた者の痛みを忘れない。隅に追いやられた者の悲しみを自分のものとする。ゆえに親石は神によって立てられた礎となり、すべてのものの土台となる。隅の親石は今の時代の希望となる。