2004年4月11日  復活日 (C年)


主教 ステパノ 高地 敬

復活 −「ない」ことが祝福される−

 「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」(ルカ24:3)
 復活の日の朝、イエスさまの遺体が安置されているはずの墓が空で、人々はとても驚き、恐れます。このところは毎年読むたびに不思議です。「復活」ということが不思議なだけでなく、復活の話が、イエス様に出会うところから始まらないで、お墓が空だったことから始まっている。おおげさと言われるかも知れませんが、「ある」ことからではなく、「ない」ことから始まっている。これが不思議なのです。
 私たちの生活も、ある意味でこの復活物語の初めのところと同じなのでしょう。あるべきものが、意に反して「ない」。「ない」ということに出会うとき、私たちは驚き、恐れ、「途方に暮れ」(ルカ24:4)ます。どうしたらいいのか分からない。そして、あせって何かで補おうとします。けれども、多くの場合、むだな努力に終わります。お金がない。仕事がない。才能がない。強くない。美しくない。人を受け入れられない。人が自分にやさしくない。今の自分を愛せない。
 私たちそれぞれ、多かれ少なかれ、欠けているものが必ず何かあります。ただ、欠けているものを取り戻そうとするとき、私たちは「欠けたところのある自分」を認めていないのではないでしょうか。「ない」などということが自分にだけはあってはならない。ちゃんと補わなければ「自分」になれない。
けれども復活物語では「ない」ということは、恐れでは終わっていません。人々は復活のキリストに出会い、恐れが喜びに変えられていきます。そこでは、「ない」ということさえもが神さまによって祝福され意味を変え、すべての価値観が変えられるできごとが起こっているのです。「ない」ことを認めることは、私たちにとって簡単なことではありません。「ない」ことが神さまによって祝福されるときに初めて、正面から向き合えることになっていくのではないでしょうか。
 「ない」ことの多い自分や欠けたところのたくさんある自分を愛せなくても、そんな私たちであるからこそ、神さまが見守ってくださる。そして祝福してくださる。イエスさまは、まだ恐れの中にある人々の中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われます。この言葉を受け取るとき、私たちの根本が変えられ、「ない」ことが「欠け」ではなく、むしろ始まりとなっていきます。復活とは、そのような私たち自身のできごとです。