2004年4月18日  復活節第2主日 (C年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

「見ないのに信じる人は、幸い」

 日本海に向かいひときわ鋭くそびえる鳥取県の大山(だいせん)は、好きな山の一つです。雪の降らない九州で育ち、初めてスキーを体験したのがこの山でした。コースを反れ、止まれずに林の中突っ込み、思いっきり木立ちにぶつかり、死にそうな目にあったことを思い出します。先日、近くを通った時は残念ながら雲に覆われてその偉容を見ることが出来ませんでした。しかし大山は見えなくても、ここにそびえていると思っただけで安心できます。
 トマスは「復活の主を見た」と騒ぐ他の弟子たちに、「あの方の手に釘のあとを見なければ決して信じない」と反論したのです。彼は現代的な合理的な発想の持ち主と思われます。私たちの評価基準から言えば「常識を備え、沈着冷静な判断をする」人物とされるタイプでしょう。その後にイエス様がトマスの面前でご自身の傷をあらわにされたのです。ご復活の主は栄光に輝く姿ではなく、傷を負うご自身をトマスに見せられました。この時、観察者としてのトマスの心の中に、劇的な何かが起こります。いや、何かが音を立てて崩れたのでしょう。「わたしの主、わたしの神よ」。イエス様は観察や研究の対象ではなくなりました。トマスはもはや冷静な観察者ではあり得ず、魂の深みでキリストを知ったのでした。何が彼を観察者から信仰者へと変えていったのでしょう。これは想像ですが、「わたしはわたしの傷を隠したりはしない。あなたもあなたの傷を隠すな。むしろ大切にしなさい。」こんな声をイエス様の傷の跡から聞いたのでしょう。
 人は誰しも傷を隠して、いや、自分でも気づかないふりをして意識というセメントで蓋をして生きています。自分の傷に触れてしまうと何かが崩れてしまうのです。トマスが見たのはイエス様の傷跡ではなく、イエス様に付けてしまった自分の傷だったのです。しかし、それはイエス様の愛を迎え入れる大切な通路だったのです。トマスはもはや、イエス様を信じるために見て観察する必要はありませんでした。自らの傷が痛むたびに、イエス様の愛が伝わってくるのですから。
 大人になるにつれ、傷というものは受けるにしろ相手に付けるにしろ、全てが自分自身に降りかかって来る事を知りました。隠そうと思えば思うほど、うずいてきます。そのうずきはやがて死に至ります。自分の傷を見つめた時、復活の主がご自身の傷の手を広げてそこに立っていて下さるということ、なんという慰めでしょうか。