2004年4月25日  復活節第3主日 (C年)


司祭 ヨハネ 黒田 裕

感謝から【ヨハネ21:1〜14】

 「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」(11節)―私はここからパウロが神から受けた「わたしの恵みはあなたに十分である」(9節)とのみ言を連想する。が、このパウロの言葉、あなたはこのみ言葉をどのように聞くだろうか。「その通り」と心から言えるならば、そんなに幸いなことはないし、そうありたいと思う。
 しかし、私自身はこういった言葉を全く受けつけない時期があった。大切だと思っていた友人から立て続けに裏切られるということがあり、学生時代の後半から数年間の間は、精神的に非常にしんどい時期で、絶望感が自分を支配していた。それだけに、教会で時折交わされる「恵み」や「感謝」といった言葉が空々しく思えて仕方がなかった。いやもっと直截にはこれらの言葉が嫌いであった。
 しかし、神学校時代のこと、ある時期から、「『恵み』は与えられるもの、そして『感謝』は、与えられたものであるがゆえに起こること」と考えられるようになった。
 今日の箇所は、聖餐式を暗示している。聖餐は英語でユーカリストというが、その原意は「十分な恵み」。そのことを裏付けるかのように聖書は語る。魚が一杯網にかかった―それは、神からの沢山の恵みを表わしている。また、「網は破れていなかった」とは、魚がこぼれ落ちるのでもなく、それからまた逆に網があまるのでもないこと、つまり、恵みが十分であることを表わしているのではないか。また、「炭火が起こしてあった」(9節)という。これが、弟子たちのなしたことならば意味がない。準備がしてあった―それは、与えられたもの、ということを表わしているように思える。
 そして食事をした時には何者であるか分からなかった人が主イエスであることに弟子たちは気づいた、とある。また、今日の使徒書では、パウロが回心する場面だが、目からウロコようなものがとれた後、食事をして元気を取り戻している。さらに、ルカではエマオ途上の弟子たちがイエスとの食事で目が開く場面(30-31節)がある。これらのことを考え合わせると、聖書の語る食事は、心の目が開かれることに関連があるように思われる。
 聖餐、それは神から私たちへの賜物。それが、「与えられる」ものであるがゆえに、私たちのうちに感謝を引き起こす。感謝は私たちをして新たな生へと目を開かせる。今日の弟子たち、またパウロそしてエマオ途上の弟子たちのように。
 そして、感謝からしか、私たちの信仰はスタートしない。