2004年5月16日  復活節第6主日 (C年)


司祭 バルトロマイ 三浦恒久

神は神、人は人

 使徒言行録は初代教会におけるペテロの活躍と、異邦人伝道に命を懸けたパウロの活動について、主に記しています。本日の使徒書の使徒言行録14章8〜18節は、パウロとバルナバの第1回目の伝道旅行の際、リストラというところで起こった出来事について述べています。この記録を読みますと、パウロの異邦人伝道がその地方における土着の宗教とのぶつかり合いで、いかに難しいことであったかがうかがい知れます。その一例がリストラでの出来事です。
 生まれつき足の不自由な男をパウロが癒したとき、人々は驚嘆し「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった。」(14:11)と叫びます。そして二人にギリシャの神々の名、すなわちバルナバに「ゼウス」、パウロに「ヘルメス」という名を与え、ゼウス神殿の祭司が、ギリシャの神々にするように、バルナバとパウロのために牛数頭を連れてきて、いけにえとして献げようといたします。このように、その地方の土着の宗教によって、キリスト教の本質がかき消されてしまうといった状況に立ち至ってしまいます。
 そこで、二人は群集に向かって叫びます。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち返るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」と。偶像とは、神でないものを神として拝むことです。また、その対象です。聖書は一貫してそのことの危険性を指摘すると同時に、神への信頼を強調するのです。「わたしたちもあなたがたと同じ人間にすぎません」という言葉の背後には、神は神、人は人という、人は決して神にはなれないのだ、という真理が語られています。これが、本日の使徒書のポイントです。
 ところがわたしたち人間には、一つの大きな誘惑があります。それは「神のようになりたい」という誘惑です。アダムとエバが禁断の木の実を食べてしまったという物語(創世記3章)、天まで届くような高い塔を建てようとしたバベルの塔の物語(創世記11章)は、そのことを如実に表しています。「神のようになりたい」という誘惑は、わたしたち一人一人の心の中に、あるいはわたしたちが生きているこの社会の中に、ますます強くなってくることでしょう。しかし決して人は神にはなれないのです。人は人、神は神なのです。
 アダムとエバが禁断の木の実を食べたとき、二人に「どこにいるのか」と主なる神は呼びかけて言われました。一体わたしたちはどこにいるのでしょうか。自分を神の位置に置いてはいないでしょうか。神の前で謙遜でありたいと思います。
 そして最後の一言。人間は神になることはできませんが、神が人となられて、この世に来られたという事実を、わたしたちは決して忘れてはなりません。