2004年7月11日  聖霊降臨後第6主日 (C年)



司祭 ヨハネ 下田屋一朗

 「善いサマリア人」のたとえとして有名な箇所です(ルカによる福音書10:25−37)。たとえ話そのものはたいへん分かりやすく、いろいろな機会に聞くことが多いでしょうから、ここではその内容よりも、語られた状況の方からこのたとえの意味を考えてみたいと思います。
 ある律法の専門家がイエスに「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」と尋ねたとき、イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返します。相手が律法の専門家であることを十分に踏まえての反問です。律法の専門家は律法全体に精通しており、律法を解釈してそれを現実の生活にどう適用すべきかを人々に教えるのがその職務でした。したがって彼がイエスに対してこの質問をしたとき、当然自分自身の答えを持っていたはずです。ルカが「イエスを試そうとして言った」と記しているのはこの間の事情を指しているようです。
 イエスの問いに対して彼は答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」前半(神を愛しなさい)は申命記6:5から、後半(隣人を愛しなさい)はレビ記19:18からの引用です。律法(五書)の異なる書にある二つの命令を結びつけて、上の答えのように一つの倫理の両側面とするのは律法の一つの解釈ですが、この解釈は当時のユダヤ教でよく知られていたものだったようです。神への愛(敬神)と人間愛をこのように結びつける思想は、ユダヤ教だけでなく当時のヘレニズム世界においても一般的だったと指摘する学者もいます。
 申命記6:5からの前半部分は、申命記6:4の「聞け(シェマー)、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」から始まる、いわゆる「シェマーの祈り」に含まれており、ユダヤ人が最も大切な律法としていつの時代にも毎朝唱え続けてきた言葉です。彼らはこの言葉を書き記した紙片を小さな箱に入れて礼拝の時に額と手にくくりつけ、また、家の戸口に取り付けて出入りの時にそれに手を触れます。それほどまでにこの言葉は彼らにとってなじみ深いものであって、永遠の命を受け継ぐためになすべきこととして最初にあげられるのはまったく当然でした。ただし、申命記6:5は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし」であるのに対し、上の答えではこれに「思いを尽くして」が付け加えられていますが、今はこれに深入りしません。
 律法学者のこの答えに対し、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われます。正しい答えを知っているだけでは意味がなく、それを実行してはじめて命に結びつくというこの言葉は、他人に教えることをもっぱらとするこの律法の専門家には強烈な批判として受け取られました。ルカは「彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」と記しています。そこでイエスは、「善いサマリア人」のたとえを語られます。そのたとえ話の後で、イエスは彼に尋ねます。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が「その人を助けた人です」と答えると、イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 「隣人を愛しなさい」という命令に対して「では、わたしの隣人とはだれか」と問うのはいかにも律法学者らしい発想です。隣人とはだれかを規定しなければ愛することもできないというわけです。しかし、イエスは「だれがこの人の隣人になったか」と問われます。「隣人である」かどうかではなく、「隣人になる」こと、つまりあなたが出て行って愛を行うときあなたはその人の隣人になることができる、とイエスは教えられます。
 昔読んだ小話を思い出します。概略こんな話だったと思います。「ある人が天国に行き、天使に案内されてあちらこちら見て回った。ある部屋に来て見ると、そこにはたくさんの舌だけが集められ、ひらひらとさかんに宙を飛び回っていた。『これはどういう部屋ですか』と彼が尋ねると、天使は答えた。『これは地上で良い教えをした人々の部屋です。彼らの舌はたしかに良い行いをしましたので、こうして舌だけが天国に迎え入れられたのです』」。他人に教えることの多い私たち教役者は、いつもここで見た律法学者のようになる危険にさらされています。