2004年8月29日  聖霊降臨後第13主日 (C年)


司祭 ヨシュア 柳原義之

高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。
                                      (シラ書10:12)

 「え〜、もう説教回ってきたの?もうええやん!説教考えるのもしんどいし。」と言いながらも29日の聖書日課を開けてみる。上記の文章が載っている。「高慢・・・ うわ〜、まいった!神様はやっぱり生きてはる。おれのことや〜」・・・。と、しばらく他の話題で説教はできないものかと考える。聖書をめくる。「うん、この話でやったら書けそう。」と、しばらく聖書を読んでみる。「高慢・・・ お前やろ!」と誰かが言うてるような気がする。「逃げるのか、お前? やっぱり高慢やからな!」と言われてるような気がする。もう一度他の場所を聖書で探す。うん、うん、これやで、この話でいこう・・・・・・。やっぱりどうも別の声がする。「正直に話せ。向き合え。」・・・・・・。(やたら・・・が多い!)
 高慢への入り口は神学校にあったような気がする。他の人より知識や経験に欠けていた自分。「何も分からないなら言いたいことを言ってみよう。」と思った。そうするとそこからいろんなものが見えてきた。神学校生活の中で「薬になれないのやったら、毒になってやろう」と相手を指摘した。天に唾をするがごとく、たくさん自分に返ってきて痛い思いもずいぶんしたけれど、この時は相手の気持ちを感じたり、考えたりするのにとても役立っていたように思うし、『泣く人とともに泣く』ことができたように思う。卒業前の大きな出来事のゆえに自分が罪びとであること、イエス様がその代価を払ってくれたことを深く知ったことも、そんな感受性があったからだと思う。
 でも、年ごとに、やっぱり自分は高慢になっていると思う。いや、「思う」のではなく「高慢」なのだ。「牧師」の「師」という言葉に、「園長先生」の「先生」と呼ばれることに、「理事長」として「経営」する者としての立場から、仲間の聖職に対して、信徒さんに対して、幼稚園の先生たちに対して、家族に対して・・・・・・。
 聖書を読む。「高慢は、主にも人にも嫌われ、不正はそのいずれからも非難される」(同10:7)。不正なことはしてないけれど、最近、人にも神様にも嫌われているように思う。「土くれや灰にすぎぬ身で、なぜ思い上がるのか。だからわたしは、彼のはらわたを、生きているときに、つかみ出してやった」(10:9)。「そうか、やっぱり今の病は罰やったんやね。」

 神様、心をください。心を砕いてください。悔い改めにかなうように心を砕いてください。わたしのこの「C型肝炎」というやっかいな病も、あなたからの罰ではなく、わたしが思い上がることのないように与えてくださった恵みであることも悟らせてください。わたしの目に涙を与えてください。すっかり乾いてしまっているのです。様々な怒り、悔しい思い、理不尽な出来事のゆえに、泣くことよりも怒ることの方が早くなって、目から涙が干上がっているのです。かつてわたしたちに苦しみを与えたものがのうのうと生き、苦しみを被ったものは今もその苦しみの中で生き続けていることに憤り、ますます高慢になり、あなたからずいぶん離れてしまったのです。
 主よ、かつてわたしが罪びとであると自覚し、あなたがその代価を払い十字架についてくださったことを知り、わたしが新しく生きるために復活してくださったことを知ったときのように、そんな心を、砕けた心を、乾いたこころを潤す涙を、主よ、ください。そして、また少しずつ優しくなれますように。笑うことができますように。泣くこともできますように。そして、そして「主よ、早く来てください。」